正岡子規 享年34歳。
ネット画像
『子規庵』(東京都台東区根岸)は、子規さんが病床にありながら、句会、歌会、写生文の会を開いた長屋です。
![佇まい](http://art26.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053796.jpg)
(子規庵。中は撮影禁止でした。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
子規さんは、7年間、この長屋で、脊椎カリエスという病気に苦しみます。
亡くなったのが、34歳ですから、27歳の頃からです。
亡くなる前3年間は、身を動かすことも出来なかったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
子規さんの看病をしたのは、四国松山から上京してきた おかあさんと妹の律さん。
律さんは、兄の看病に専念するため、二度も離婚なさっています。
病床から見える庭に四季の花々を植え、糸瓜を実らせます。
(絵葉書です。)
寝たきりの子規さんにとって、その庭、四角い視野だけが、
無限に広がる世界でした。
(子規さん直筆。)
『度重なる不幸に対して、一度も流されたことがない。かといって抗い続けたわけでもなくて、運命に身を任せながらも自分でその運命の中に活路を見いだし、明るいものにし続けてきた。』(「正岡子規 運命を明るいものに変えてしまった男」多湖輝 著より。)
という子規さん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
こんな子規さんのもとには、大勢の友人が訪れました。
夏目漱石、森鴎外、中村不折、高浜虚子、河東碧悟桐、伊藤左千夫、与謝野鉄幹、島崎藤村、、、
![二重だんご](http://art27.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053992.jpg)
(子規さんも大好きだったという「羽二重だんご」です。)
根岸の町は、今では、高いビルが立ち並び、当時の面影は、消えつつあるのでしょうが、
『子規庵』の建つその一角だけは、まるで、明治の時代にタイムスリップしたかのようで、
ネット画像
(伸ばせなくなった左脚を入れるため板をくりぬいた机。)
子規さんが詠む俳句の筆の音が
聞こえてきそうでした。
![子規庵](http://art24.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053746.jpg)
(表書き。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
・・・子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。
尚、子規庵保存に門弟たちが尽力した様子をしるした「子規庵要記」(寒川鼠骨著 六法出版)が本年3月に刊行されました。
子規庵HP
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/cf/666d1b2736d57e8163a4383bf9685473.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/b9/c360a489fca2ab3b9c119d1ea0dafce1.jpg)
『子規庵』(東京都台東区根岸)は、子規さんが病床にありながら、句会、歌会、写生文の会を開いた長屋です。
![佇まい](http://art26.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053796.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
子規さんは、7年間、この長屋で、脊椎カリエスという病気に苦しみます。
亡くなったのが、34歳ですから、27歳の頃からです。
亡くなる前3年間は、身を動かすことも出来なかったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
子規さんの看病をしたのは、四国松山から上京してきた おかあさんと妹の律さん。
律さんは、兄の看病に専念するため、二度も離婚なさっています。
病床から見える庭に四季の花々を植え、糸瓜を実らせます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/a8/bb1e74417a77f593d9ed10111510b2d3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
寝たきりの子規さんにとって、その庭、四角い視野だけが、
無限に広がる世界でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/41/c80ae6f4c1b007eef1221e7b775521c8.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
『度重なる不幸に対して、一度も流されたことがない。かといって抗い続けたわけでもなくて、運命に身を任せながらも自分でその運命の中に活路を見いだし、明るいものにし続けてきた。』(「正岡子規 運命を明るいものに変えてしまった男」多湖輝 著より。)
という子規さん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
こんな子規さんのもとには、大勢の友人が訪れました。
夏目漱石、森鴎外、中村不折、高浜虚子、河東碧悟桐、伊藤左千夫、与謝野鉄幹、島崎藤村、、、
![二重だんご](http://art27.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053992.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
根岸の町は、今では、高いビルが立ち並び、当時の面影は、消えつつあるのでしょうが、
『子規庵』の建つその一角だけは、まるで、明治の時代にタイムスリップしたかのようで、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/23/28d609326cfaaa247b5da34e744de438.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
子規さんが詠む俳句の筆の音が
聞こえてきそうでした。
![子規庵](http://art24.photozou.jp/pub/47/228047/photo/36053746.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/85/d14c0b9675c603b862da825aebb10074.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/13/ff987a712135e1ee8e6a5ddd9c5af40e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/9e/7efee38c58be736f39a81e58f1a86bcc.gif)
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。
子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。
昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。
尚、子規庵保存に門弟たちが尽力した様子をしるした「子規庵要記」(寒川鼠骨著 六法出版)が本年3月に刊行されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/cf/666d1b2736d57e8163a4383bf9685473.gif)
正岡子規(子規庵)・・・蒼々たるメンバーですよね~
四季のお花に・・・病気・・・お若いですよね。
ご紹介~ありがとうございます
今回の接続機・・・前のに輪をかけて反応が遅い~~
やはりネットの環境は不可欠ですかぁ・・・
良かった良かった~!
子規庵の雰囲気、一人で色々想像してますよ。
撮影禁止だったのは、残念・・・。
私もGWは、東京の姉の所に母を連れて行きますよ。
さてどこへ行こうかと思案中です。。。
正岡子規と言えば「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」が出てくるのですが、
短い人生の大部分を結核→脊椎カリエスと
闘病を余儀なくされていたのですね。
その中で数々の句を残され、名を残され。。。
偉大な方ですね。
一緒に子規庵へ行った気分になりました。
ありがとう
四国お遍路で松山に行きましたのに
子規ゆかりの処には行けず・・・・。
この記事を読んで、残念~と反省しています。
お疲れさまでした。
ゆっくりとお休みくださいね
こちら、雨降りでしたよ。。
こうして教えて頂いて、正岡子規さんの事が、よくわかりました~
子規庵には、昔ながらの風情を感じますね。
お抹茶と羽二重だんご、美味しかったでしょうね~
作品に対する感想も
違ってくるでしょうねぇ
病気をかかえつつ生きるのは
どんなに
しんどかったことでしょう
ダブらせながら写真を見ていました。
充実した旅行だったようで、よかったですね。
お土産話楽しみに待ってました。
私もlilaさんと同じ「坂の上の雲」の中で演じてる香川照之さんとだぶりました。
あまり今まで興味がなかったのですが 一度行ってもいいかなと思うようになりました。
楽しんできましたか? o(*^▽^*)o
今なお 残ってるんですね!
凄いなぁ!!
素敵な旅になったようですね^^
子規庵、明治の時代にタイムスリップしたような気持ちになりました。
辛い病気と闘いながらも前向きな言葉を残されていたのですね。
胸にじ~んと響くものがありました。
若くしてこの世を去られたのはとても惜しい方でしたね