4月4日にスタートしたNHK朝ドラ『とと姉ちゃん』が早くも話題を呼んでいるが、高畑充希(24)が演じるヒロイン・小橋常子のモデルとなったのは、天才編集長・花森安治とともに婦人誌『暮しの手帖』を創刊した大橋鎭子(しずこ)だ。
鎭子は東京・銀座に出版社・衣裳研究所を設立し、1946年、花森を編集長に据えて『暮しの手帖』の前身となる『スタイルブック』を創刊した。
タンスの中の着物を使って誰にでも洋服が作れる「直線裁ち」という手法を紹介する内容で、創刊号から売れに売れたという。だが、しばらくすると類似誌が増え、売れ行きは落ちていく。
次に鎭子と花森は「衣・食・住」の生活全般をテーマとした『暮しの手帖』を1948年に創刊する。当時は『美しい暮しの手帖』という名前での出版だった。だが『スタイルブック』とは違い、売れ行きは芳しくなかった。1万部を刷ったが、3000部は社内に山積みとなっていた。
元『暮しの手帖』の編集部員で『花森安治の編集室「暮しの手帖」ですごした日々』の著書を持つ唐澤平吉氏はこう言う。
「鎭子さんたちは在庫を大きなリュックに詰め込んで、関東近県の書店を回っては本を置かせてもらえるように頼み込んだそうです。しかも、鎭子さんは書店の中に上がり込んで、ちゃっかりお茶までいただいちゃう。それぐらいバイタリティのある方でした」
その努力もむなしく、同誌は早くも廃刊の危機を迎える。編集長の花森は「みんながアッというような記事を載せなくては雑誌がダメになってしまう」と編集部員に発破をかけた。
この窮地を救ったのが鎭子だった。当時、戦後の食糧難で国民が芋を主食としていたなか、「皇族はマッカーサーの庇護のもと、ゆうゆう暮らしている」との噂が流れていた。
真相を確かめるため、昭和天皇の第一皇女、東久邇成子さん(今上天皇の姉。当時すでに皇籍離脱していた)に会いに行き、直接原稿を依頼したのだ。『暮しの手帖』の元編集長・尾形道夫氏は鎭子の行動力についてこう話す。
「鎭子さんは飛び込みで、いろいろな人に会いに行く方でした。だから顔はずいぶん広かったですね」
得意気に原稿を持ち帰った鎭子の鼻を、花森はへし折る。
「当時、元皇族の原稿が取れただけで万々歳なのに、花森さんは“面白くない、書き直してもらいなさい”と突き返したそうです。花森さんもすごいですが、成子さんに書き直しをお願いした鎭子さんもよくやったと思います」(同前)
書き直された原稿には、元皇族も国民と同じく焼けた住宅を修理して住み、配給の芋を食べ、庭の野草を摘んでいる様子が綴られた。
その手記は「やりくりの記」として『暮しの手帖』第5号に掲載された。この号は大スクープとして話題となり、完売。『暮しの手帖』は一躍国民的婦人誌へと成長を遂げた。その花森の厳しさが鎭子を編集者として成長させたという。
あるとき、花森は撮影をするために赤い座布団を探させた。しかも、普通の赤ではなく、赤に藍色がさした珍しい赤だった。だが、当時はまだ白黒のページだけで、本来であれば何色でもいいはず。
「花森さんは鎭子さんに“これからはカラーの時代が来る。そのときに編集者が色の感覚を持っていなかったらどうするんだ”と言って、見つかるまで探させたそうです」(鎭子を知る出版関係者)