青龍神界鏡

次はまた首相してみんかお前。
https://www.youtube.com/watch?v=CsI7GSs4d1s

二十九 美学なんぞ無視。

1987年12月18日 12時00分31秒 | 投稿



だけん、十七米ーとる、の高さってば、三階届き中な山。
削れていく山の更新は、四日おき。
景気良過ぎたら、十七から追加、三、四米ーとる。
降雨期が銘柄の生理を都合良く刺激したる、四、五年に一度、三十九米ーとる、から、四十四米ーとるの、米山さんが成っとる。
公家が危機感を露呈中との間抜け顔で、検分に訪れる。
米、との成りだけで、米山さんは議会傍聴席の長に俯瞰上就任しとる。
四、五年に一度、通常は七米級である周囲の米山さんは、十から十一米級化しとる。


ここに在った、全て卸屋機能なる複数の大規模施設の内一つに、米山さんは居られた。
上の画像、十一階が施設の高さ。
これ程の規模の施設は、難波には稀。

京の商工会議所やら、ガラス張り旅館、映画館、派手見えな施設は難波には無かった。

派手な色はもう挙げた。
品目、鋭流さ、派手な人間動態、素性、薄めな美学化粧。

江戸が、まだ幼かった。
これが、難波と交際出来ずの一、大理由。
もし、江戸が望む商慣行に難波が、お情けで付き合ってやる、とすると、時を経て、必ず、取引に仕方無く付きまとう、まつろい事、人や物が云うに云われぬ、紐の結び方を知らず者への侮蔑視線、これらへの警戒感が、江戸に従う藩に撒き散っていく事になる。
そうなれば、の先を難波は克明に論理掌握していた。
難波が、透明な、論難の大波小波を浴びいくは必定。
その果ては、ここら、上海と香港の間の日常風景を、算術式上判断にて、論難し、外国の中堅市の吏に、是正措置を担わせいくとの、論外なる政商判断が、遮二無二沸きいくとの眺望を、難波が恐れいく日々。
そんな事は、難波は気に入らん、と判断する正気さの内に、難波政経は、清の青島、遼東半島へ、難波の公的分権組織、大船舶団を遣わすに至る。
事の起点は、商慣行を実践する、乙方の吏が、現場実習。
難波経済が扱う品目と商慣行の洗練段階の重みを、分かっておらずだったちょんまげの黒みが、ゆっくりと理解を頭へ収めいくが如く。
難波は分かっていた。
江戸は必ず、難波経済による、日本中の銘柄の集約力を、渇望するであろう事を。
この時、江戸は分かっていない、間違い無く。
それは、難波経済の最重量銘柄なる、あまたの外国との誠実牽連の歴史の果ての果樹園、最奥の果実なる事を。
公家は断じていた。
俯瞰上発生しゆく、最奥果実への、よだれつけ回し視線との無礼、これが周辺国へ及ぼしいく、透明なる精神皮膚疾患への治療法の効能の遅さを。
書簡の往来、これのみで、公家、財界人は、至りいきを、断じた。
そして、難波の各層は誠実に、江戸に、教えてやった。
辛さと共に。
他者の頭部の内を、空洞なる果実、いつぞやかなる収穫対象と、乱雑に捉え、他者を愚昧なる、人以下の物と捉え、他者へ政経上要衝路にての教育指南を与える。
こんなこんなこんななのに、そちらが、そんなそんなそんなをしていくと、必ずこんなあんなほんなになっていく筈と、難波は絶対に断じておりますよそこと、ここと、あそこと、そこらの者の、無言手仕草と社交場の笑みは歴史長らく。
・・・げに情理の籠る様、見事なる綾竹紋様のご披露、貴殿の口より確かに毎秒得たる候。
学ぶちょんまげの黒みの下。

難波経済と交際したがっていたのは日本では、江戸のみ。
難波を知る藩は、等しく危機感を濃く抱いていた。
適当な挨拶訪問の数の果ての、なし崩しなる至りいきを。

藩の一級銘柄を難波に送る、と難波経済と堂々交際、は全く異象限にあり、違う。

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