無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

“好戦的な国家主義者”が率いる国、ジャパン!

2009年04月16日 | Weblog
日本はギスギスした世相の国、喧嘩好き・戦争好きな国になってしまった。

これもマスメディアが、巧みな情報操作・世論誘導で国民を洗脳してきた成果である。

「死刑にしろ!死刑にしろ!」「殺せ!殺せ!」と一つの凶悪犯罪に30万人の署名が殺到する。

「北朝鮮がミサイルを発射する」(注:本来なら「北朝鮮で国連安保理決議に違反して弾道ミサイルの発射実験が行なわれるもよう」と報道されなければならない)「政府は、迎撃ミサイルを配備、その破壊命令を発動した」「拙稚な技術なので日本に落ちてくる」と臨戦態勢をとり(テレビで映し出し)、敵対国を作り出し国民の戦意をあおる。

「打ち上げたら人工衛星かミサイルかは、その軌道の角度ですぐ分かりますよ」と専門家が言っていたのに、打ち上げ後、打ち上げたらすぐハッキリするはずの『飛翔体』についての判断を報道せずに、一時『飛翔体』と表現を変えたものの、又、すぐ河村官房長官の「政府として『ミサイル発射』という表現にした」(4月10日記者会見)の一言でマスメディアは「北朝鮮のミサイル発射」で統一された。

河村官房長官は「(人工衛星かミサイルかの)最終的な判断は、防衛省がなお分析中であり、今後の検証が必要」としているが、他の報道と同じで、どちらかだったか、の発表は報道されないままにされる。

国民は「ミサイルが発射された」と信じ込まされたまま北朝鮮への憎悪をつのらせる。「日本の上空をわがもの顔に(ミサイルを)通過させるとはけしからん!許せん!」「制裁だ!制裁だ!」

北朝鮮の『発射』を非難していた韓国でさえ、発射後すぐ「軌道から『人工衛星』搭載ロケットだ」と認めたのに、日本のマスメディアは「弾道ミサイル発射」報道を徹底。

「アメリカが、発射されたのは『テポドン2号』だった、と言っている。」とか、「日本は当事者だ、中国やロシアは…(裏に『共産主義国め!』)」とか「人工衛星打ち上げだったとしても長距離弾道ミサイルの技術を使って…」とか「国連安保理で議長声明が出されたではないか」とか、言って、他の国のように冷静な判断をすることを非難している。

報道は「この問題は(北朝鮮のミサイル発射問題は)国連安保理でも取り上げられ…」としているが、“この問題”を安保理に提訴したのは日本である。(従って、常任理事国6カ国と日本での協議となったもの)

報道は「アメリカ・日本が新たな安保理決議(新たな制裁)必要と主張、中国・ロシアは慎重姿勢」としているが、
アメリカは今後の「北朝鮮との外交」交渉を上手く運ぶ為に、日本に組している態度を取っただけ(日本を利用しているだけ)である。
結局、「新たな制裁を!」と叫んでいるのは最初から「この件で安保理を開け!」と言った日本だけだったわけで、他の安保理常任理事国6カ国は日本の顔も立てる形をとった、何の拘束力も無い「議長声明」で決着させた。

北朝鮮がこれを利用しての交渉戦術を展開中であり、日本は今でも毎日のようにそれに乗せられて報道しまくっている。


どうしても、(上記の様に)一つの出来事についての“報道振り”を長々と批判してしまうが…。

麻生首相の小学校での“交通安全について”の報道映像や、ソマリヤ沖の海賊退治の海賊〇〇法の制定にしても、報道は「日本の船舶だけでなく『他の外国の船舶も護衛出来るようにする』法案の審議が云々と、あたかも、この法律制定は国際貢献の為に必要なのだ、とPRし、「与党はその他の発砲制限の緩和も含め、実際にもう警護を始めている海賊退治の人々の安全の為にも早急に法案の成立を目指している。」として、相手に向かって撃ち、相手を殺傷しても良い(即ち、威嚇射撃だけでなく“こちらから武力行使=戦争出来る”条項を盛り込んだ法律)は「その他のささいな変更点」であるかのように報道していた。

よく聞いていると、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ成功!」「衛星から将軍様を称える歌が流れています」といった報道と変わりなく聞こえてしまう。

国民は本当のことを知らされないまま、マスメディアを信じ込み、洗脳されていく。

軍隊を海外に派兵出来、こちらから武力行使=戦争出来る既成事実をどんどん作っていっている。

■「北朝鮮が核兵器を持っているものだから(持っていない)日本を甘く見ている。日本も核兵器を持ち、相手の軍事基地を先制攻撃出来る様に憲法を変えたら、北朝鮮も少しは日本の言うことを聞くようになるだろう。」

憲法を守らなければならない権力者が、こういった憲法違反の発言をすることに、何も批判を言えないマスメディア。

皇帝であろうが、君主であろうが、将軍であろうが、独裁者であろうが、英雄であろうが、聖人であろうが、人間間違いは起こすものなので、(特に権力の座で長期にわたって政事に携っているあいだには間違うこともあるので)それを防ぐために憲法を作り、間違いが起こらないようにしている。これが立憲民主主義制度である。

アメリカの大統領も就任時に最高裁長官に対し、聖書に手を置いて誓わされる文言がある。

「私は、合衆国大統領の職務を誠実に遂行し、全力を尽くして合衆国憲法を維持・保護・擁護することを厳粛に誓います。」

立憲民主主義国は、この民主主義の精神(全力を尽くして憲法を維持する事)を基本にして政治が行なわれている。

日本国はキリスト教国ではないので聖書に手を載せようが平気で嘘をつけるし、司法も自分の権力下(支配下)に有るため、全力で憲法を守ろうともしない。逆に憲法を平気で踏みにじっている。

日本の総理大臣も就任時に「かしこくも御名御璽を賜り…」ではなく、この上記文言を誓わせてはどうか。

「わたくし、麻生太郎は日本国総理大臣の職務を誠実に遂行し、全力をあげて(別訳=出来るかぎりの最大の努力をして)日本国憲法を維持・擁護することを誓います。」

国民の附託を受けて権力の行使を任されるトップは、上記の言葉くらいは国民に向かって誓ってほしいものである。

言いたいこと=書こうと思っていたことが書けずに、全く違う方向に行ってしまった。

今日は、ここまで。またね。