◎覚醒して世界が変わる-5
○白隠-5
白隠年譜によれば、白隠の最後の悟りは、42歳のそれである。その夜白隠は、一晩中法華経を読んでいた。
『師、四十二歳。秋七月・・・・・。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり』
白隠はこの夜、法華経をきっかけにして、これまでの認識が根本的に誤っていたことを悟り、大自在を得たという。法華経は釈迦の死後何百年も経って作られた経典だなどということは関係ない。とにかく法華経が経典の王様である所以を了知し、声を放って号泣した。
これが発生した雰囲気はそれまでの彼の悟りの雰囲気とは違うものがある。黙照枯坐というか只管打坐が起きたのではないかと感じられるのである。ただ身心脱落したのではなく、大自在を得たという表現を白隠がしたので、彼の高弟がこれを聞き記したのだろう。
禅修行もモデル・ケースというものを考えると、行住坐臥と様々な禅的冥想の試行錯誤の最後に万事休して只管打坐がおこる。そして身心脱落して、生の窮めた頂から死をも眺めるということなのだろう。
しかし、白隠は、純粋な只管打坐ルートでは想定されていない超能力(軟酥による観想法ヒーリング)を用いたりして、このモデルを踏み外している。超能力ということでいえば、本来は身心脱落して後、六神通が備わるという順序なのだろうが、こうしたことは、その人によって違うということなのだろう。
厳しく見れば、白隠は自分で身心脱落したなどとは言っていない。それは道元も同じ。身心脱落したかどうかを感じ取ることのできるのは、覚醒した者だけである。
しかし、大自在も余人には理解しがたいポイントだが、大自在を語る以前から白隠の世界が変わったことは、心ある人にはわかるのではないか。