若いの頃の日記を読む(3)

2020年07月16日 | 暮らし

東京の親戚の家に泊まらせてもらって、私は仕事と住むところを探した。
新聞の求人広告にあった文京区本郷三丁目の試薬会社に、月給4万円で採用された。
その会社は、朝9時から午後4時半までの勤務だった(土曜日は12時まで)。
夜の学校に行く青年に働いてもらいたいということで、その勤務時間だった。
だから5人いた先輩の4人は夜の高校や大学を卒業していて、1人は学校に通っていた。
先輩たちと話していると楽しかった。
私はいい会社に就職出来たと思った。
私は、本郷三丁目の会社から歩いて20分ほどの、お茶の水にある予備校に行くことにした。
地下鉄丸ノ内線で行けば5分ほどで行けるのだが、私は節約して徒歩で通学していた。
アパートは、山手線駒込駅から15分くらい歩くところに決めた。
3畳のアパートは2階にあり、台所とトイレは共同で月5,500円だった。
会社のある本郷三丁目と駒込駅を、本郷通りを走るバスで通勤した。
そんなことが2月の日記に書かれていた。
私と同じ求人広告で採用された人がいた。
それが龍彦だった。
彼は、プロボクサーになるためにその会社に入った。
仕事が終わってから毎日、ボクシングジムに行っていた。
彼は、医療器械の会社や大学病院などに試薬などの商品を車に積んで配達していた。
私は、会社のメインの商品である血液染色液を製造して、
ラベルを貼ったりして商品にしていた。
血液染色液は1回に10リットル造り、
出来上がったときに自分の親指を傷つけて血液を採り、血液染色液で染色して確かめた。
私は週に2・3度自分の親指に刃物で傷つけて血液を採っていた。
今考えれば理不尽な仕事でした。
私は、4月から予備校に通い始めた。
しかし、私はアホでした。
まったく予備校の授業が頭に入らないのです。
そりゃあたりまえです。
茨城の3流以下の高校の私が、東京で有名な予備校の授業についていけるわけがありません。
9月になるともう、絶望感しかなかったです。
だんだん予備校に行くことが厭になってきた。
そのころから小説を読むようになった。
日記に書いてないが、龍彦がその頃プロテストに受かった。
しかし、プロデビュー戦の1週間前に、龍彦が私を居酒屋に誘った。
そこでかなり酔ってから彼は、ボクシングをやめるといった。
龍彦は、「おれは人を殴るのもなぐられるのも、もうイヤだ」といった。
私はそれまで彼に誘われて、近くの後楽園ホールにボクシングの試合などを観に行っていた。
私もボクシングはツライゲームだなと思っていた。
龍彦がボクシングをやめ、私が予備校に通わなくなって、2人はしょっちゅうつるんでいた。
私のアパートに龍彦が来るとギターを教えた。
そのうち彼は私よりギターがうまくなり、フォーク歌手を目指すようなときもあった。
そのうち龍彦が会社を辞め大坂に行き、私も会社を辞めて役者になろうとした。

こんなことを書いて行くとキリがありません。
考えればみなさんにはどうでもいいことでした。
こんな九想話はつまらないですね。
結局2冊目の日記の終わりは23歳で死んだ龍彦のことが書いてあった。
20歳で萩焼の窯元に弟子入りした龍彦は、
弟子だった女性とそこを抜けだし私のアパートに来た。
龍彦が、その女と結婚するという。
私は、龍彦の結婚に反対し、彼は女と別れて(離れて?)備前焼の窯元に行った。
9月に弟子入り、10月に脳の病気にかかり、11月に亡くなった。
私は、彼の死は、ボクシングをやったことが原因ではないかと思っています。
龍彦の結婚に私が反対しないで、2人がどこかで結婚していたら、
あいつは死なないで今も生きていたりして、と思うと結婚に反対しなけりゃよかった。
そんなことが書いてある2冊の日記でした。
しみじみと青春を振り返りました。

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