遠き日の藁打つ音に目覚めけり 大串 章
20日の「新・増殖する俳句歳時記」で清水哲男さんが紹介してくれた句です。
この句を読んで、子どもの頃よく藁を打ったことを思いだした。
縄を編むことはもちろんのこと、草履を編んだりした。
藁は私たちにとっておもちゃでもありました。
藁を打つときには、藁に水分を与えなくてはならない。
水を含ませてしっとりした藁でないとだめです。
タバコの葉を乾燥小屋に吊すときに、縄の編み目にタバコの葉を差す。
その縄は、人間が編んだ縄でなくてはいけない。
タバコの葉の根元を縄の編み目に1本づつ差していく。
それを向かい合わせの壁の棒に結わえて乾燥小屋の中に吊す。
タバコの葉をたくさん差した縄は重たかった。
真夏にする大変な労働だった。
その縄を編むときは、均一にきれいに編まなければならない。
縄を同じ太さで編んでゆくのは難しい。
私が子どもの頃、冬に父は俵を編んでいた。
俵を編む木製の道具がありました。
そして、俵ぼっちも編んだ。
俵のふたになるものです。
むかしは、むだに捨てるということがなかったのですね。
藁全部を利用していました。
藁を打つ木槌が懐かしい。
あれは樫の木で作られていた。
あの木槌でなければ藁打ちはできない。
縄を編むということは、日本の素晴らしい文化ですね。