ゆっくりのんびり市町村廻り

何年かかるか、もしかしたらできないかもしれないけど、日本の全市区町村の制覇を目指して頑張ってみる!

164日目 ありきたりですが、広島城と原爆ドームへ

2017-02-20 23:54:08 | 山陽
平成28(2016)年9月17日(土)


広島市の中区に入ります。
名勝・縮景園は門から覗くだけ→
広島藩主浅野長晟(ながあきら)が家臣に命じて元和6(1620)年から別邸として造らせた庭園。
原爆で壊滅状態になるも復元される。

次、広島城→
名古屋城・岡山城と共に「日本三大平城」の一つで、別名は鯉城(りじょう)。
よく知られた事ですが、広島東洋カープのチーム名の由来となったお城。
毛利輝元が天正17(1589)年に築き始めて10年かかって完成。

多くの川に囲まれているので、あたかもそれが天然のお堀の役割を果たしていて、さぞ防御は完璧!
と思いきや、水攻めをされたら一たまりもない脆弱なお城なんだそうで・・・。
そんな弱っちぃお城だからか、櫓の数が多く実に88基。この数は日本一なんだそう。
そうか、だからカープはあんなに弱かったのか!(関係ないし) 

日清戦争当時、ここに大本営が置かれましたが、原爆で壊滅→

あちらこちらにこうした被爆樹木があります→
爆心地から910m。大本営は吹っ飛んだけど幾つかの樹木は耐えました。
人間で言えば大ヤケドを負った状態だよな・・・、その強さには驚嘆するほかありません。

さて、登城します!→

天守閣より→
真横西側の基町(もとまち)高層団地。基町の地名は「広島開基の地」が由来なんだそう。

それはそれとして、ここは戦後、戦禍から生き残った人や引揚者、疎開から帰って来た人、在日朝鮮人らが建てたバラックで密集していて「原爆スラム」と呼ばれる、まさにスラム街だったらしい。
そのスラムを整備すべく建てられたのがこの団地。
団地のその独特な構造ゆえ建築計画学の教科書には必ず載っているらしく、集落ではないのだけど、次回広島を訪れた際は必ずこの中を散策するつもり。

ここは後で→

ちょうどホテルのチェックインの時間を迎えたので、そこへ行ってちょっとばかりの休息して再び外出。
ようやくお荷物であった荷物から解放されましたわ・・・。

鯉城通りを通って、広島の繁華街・紙屋町へ→

広島県庁

紙屋町交差点下の地下街・紙屋町シャレオ→
最初、あれっ?こんな地下街、昔あったっけ?と思ったけど、たいして最近でもないのですが15年ほど前に開業したという。
ま、広島市中心部は長らく御無沙汰でしたからね・・・。

↓かつて広島市民球場のあった所では「広島オクトーバーフェスト2016」絶賛開催中。

ドイツのビールやグルメなどが楽しめる魅力的なイベントで、しばしボッチ酒池肉林を満喫しようかと脳裏をかすめました。
が、これから原爆ドームや平和記念公園、原爆資料館といった厳かな場所に行こうというのに真っ赤な顔をしていたらかなりの不謹慎。
やめておきます。

たった一度だけここで試合を見たことがあります。
三次の時にもお話しした博物館実習を終え野に放たれたのですが、すぐに千葉に帰るのも何だし・・・。
って事で横浜大洋ホエールズ戦(古い!)を観戦したのでした。
そして遠路遥々南宮崎からやってきた今は亡き寝台特急富士でのんびり帰ったのでした。

相生通りの紙屋町交差点方向→

↓原爆ドーム
 
負の世界遺産なんだよな・・・、いつ見ても重苦しい気分になるけども、平和の象徴でもある。
これを未来永劫守っていくのは我々日本人の責任なのだな、と改めて思います。

高校生が熱く核廃絶を訴える!→
偉いな。私が高校生の頃と言ったら遊んでばかりだったし。
その情熱に惹かれたか、多くの人達が耳を傾けておりました。

原爆ドームの東側、程近い所にある「広島本通商店街」の入口→
東西約600mで、アーケードは昭和29(1954)年から設置される。
江戸時代にはこれは山陽道の一部だったようです。
まだこの商店街を歩いた事はなく、今回も歩く予定ではないのですが、ここも次回だな、うん。

これも原爆ドームからすぐ東にある「島外科内科」という病院の横→
東経132度27分27秒、北緯34度23分29秒、高さ約600mのここで原爆は炸裂。

一体何人もの人が見上げた事だろう?→

↓70数年前にここで悲劇があったなど信じられないくらい、穏やかで平和な時間が流れておりました。


 


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