古文書の講座に参加して10年近く、その間、ずっとお世話になった先生が2年ほど前から体調を崩され、今は違う先生が担当されていますが、今日は前の先生の案内で、古文書のお仲間20数名と高岡の史跡めぐりに行ってきました。
瑞龍寺、繁久寺(前田利長の墓の墓守寺)、利長墓所、高岡大仏(加賀藩士寺島蔵人の作った時鐘)、勝興寺と見学しました。
まずは国宝の瑞龍寺。
一般には3代藩主前田利常が、兄である利長の恩に報いようと、その御霊を祀るために建立した寺、と言われているお寺です。
それももちろんあるのですが、実は、利長が、自分が帰依していた越前の宝円寺の僧のために建立したのが始まりだということです。 宝円寺は前田家の菩提寺で、越前、金沢と、前田家がその領地を移動するにしたがって寺もともに移されました。利長が富山、高岡に移ると、それにしたがって宝円寺も移り、富山では「法円寺」と称されていました。(金沢の宝円寺と区別するためでしょうか。)これが、利長の死後、利常によって整えられ、利長の院号から「瑞龍寺」と称されるようになったというのが由緒のようです。
山門から仏殿を撮る。山門が額縁のようになって仏殿を写し出すはずなのですが、仏殿が真ん中におさまりませんでした。
国宝だけあって、堂々たる禅寺です。芝生の緑が目にやさしく映ります。
伽藍のほかの建物は、桧皮葺ですが、仏殿だけは金沢城と同じ鉛が使われています。
金沢城の解説などには、有事の際に鉄砲の弾に作りかえるため、などとありますが、鉛が余ったから、というのが真相らしい。もとは仏殿の屋根も桧皮葺だったそう。
お寺の方は、戦の武器の材料となる鉛を仏様のいらっしゃる屋根に上げることで、再び戦にならぬようにした、と解釈されていましたが、そういう優なる解釈も私的には好きです。
こちらは庫裏(台所)をお守りする韋駄天像。いいお顔をされていたので思わず見ほれてしまいました。
前田家と織田家の分骨廟がお寺の脇にあります。利家、利長、信長、信長の側室の宝きょう印塔が並んでいます。利長をお祀りするお寺とあって、利長のものが、御廟の細工からして一番手が込んでいました。
思えば昨日6月2日は本能寺の変の日(旧暦ですが)。その翌日に分骨廟とはいえ、信長に参ることになるとはなんとなくいわくを感じてしまいます。
本能寺といえば、今日3日は、魚津城落城の日。景勝が辛酸を舐めた日でもあります。本来ならば、魚津城に向かって手を合わせるべきなのでしょうが、信長廟に手を合わせてきました。
それでも思いは魚津城に。合掌。
利長の墓所は、瑞龍寺からまっすぐに伸びた八丁道の先にあります。何度か訪れていますが、大きなお墓です。武将の中では最大級のお墓。利長の墓所は、金沢の野田山にもありますが、そちらは形だけ。遺骨(遺体)は高岡の墓所に眠っています。
高岡伏木の勝興寺のある場所は、万葉の時代に国府が置かれていた所。大伴家持が国司として派遣されてきたときに、そこで執務を執った場所でもあります。
一向宗の拠点ともなった寺ですが、江戸時代には、前田家から手厚い保護を受けました。城郭寺院の様相を呈していて、堀や土塁の跡が残されています。
現在、改修工事中で、約20年はかかるらしいです。古文書の類も貴重な物を多数所持しているということで、虫干しとして、一般に公開することもあるそうなので、機会があったら是非見たいものです。
帰り、木舟城跡によりましたが、土砂降りで、バスの中からの見学。木舟城は、天正の大地震の時に崩れ落ち、城主だった利家の弟の秀継は圧死。9メートルも陥没したということです。
このお城は一度来てみたいと思っていた城跡です。場所がわかったので、いつかまた行ってみようと思います。なんということのない平城ですが。
帰りに雨に降られましたが、金沢まで来るとぜんぜん雨の降った気配もなく、一瞬の豪雨だったようです。
自分で計画立てて出かける史跡めぐりもまたそれはそれでいいのですが、たまには誰かに連れていってもらうのもいいものですね。同好のお仲間がいるとまた楽しみも倍増します。
去年、半年ほどさぼっていたら、古文書もよめなくなっていました( T_T)
ちゃんと真面目に取り組まないとだめですね。
瑞龍寺は凛とした雰囲気の漂うお寺です。
利常さんの兄に対する思いが伝わってくるようです。
古文書の講座に、もう10年近く参加されているのですね。
素晴らしいです。
継続は力なり、の言葉が浮かびます(^^
お仲間との史跡めぐり、楽しそうですね。
瑞龍寺、お写真からだけでも、立派なお寺だということが伝わってきます。