
このなんでもないお話に100万の読者が集まる。そしてさらに何百万もの読者がそれに続く。凄い話だ。でも、村上春樹自身はきっとそんな現実を醒めた目で見ている。ふうん、って感じ。
「多崎つくる」なんていう固有名詞がタイトルにある。その名前には意味はない。別に「カフカ」でもよかったのだ。この平凡とすら言えないような名前を持つ男の子が20歳のときに昔からの仲間たちに、はみられた。彼らは5人組として、ずっと一緒だった。高校を卒業しても、変わらなかった。つくるだけが名古屋を出て東京に行ったけど、変わらなかった。でも、突然幸福な時代は断ち切られる。
そして16年が経った。なぜ、彼らはつくるを絶ったのか。今、その検証の旅に出る。それだけの話である。ミステリーではない。いまさら彼らに会って何をどう切り出せばいいのか、なんて思わない。ただ、アポもなく、彼らの前に行く。会えなくてもかまわない。
人間は色彩を持つ。でも、自分にはそれがない。彼の周りにいた4人がそうだし、彼がその後かかわったわずかな人もそうだった。だが、彼がいう意味での色彩なんて持たない人のほうが多い。苗字に色が含まれる人なんて、ほんのわずかだ。僕だって「広瀬」だから、色彩を持たない。彼のこだわりは意味がない。だが、この世の中にはそんな無意味が横行する。こだわりなんてそんなものだ。だが彼はそれを手掛かりにして、自分が失ったものと向き合う。
人はある日突然理不尽な喪失を経験する(場合がある)。それは自分のせいで起こる場合もあるし、そうではない場合もある。だが、人はそこに何らかの意味を見出す。ここに描かれることは、特別だけど、誰もが経験することでもある。人は、ある日、あるいはいつの間にか、色彩を(輝きを)失う場合がある。なんだか、怖いな、と思った。
村上春樹は、何でもない日常を舞台にして、ひとりの男のある年の出来事を描いた。それだけのことだ。ストーリーを追う小説ではない。そこで立ち止まり、考える小説だ。だから、決着はつかないまま、投げ出される。でも、人生なんて、そういうものだ、と村上春樹の読者は思うから、あの終わり方でも納得する。それにしても、こんな平凡な小説に夢中になるなんて、日本人はおもしろい。そして、きっといつものように、海外でもたくさん読まれる。彼は「世界の村上春樹」なのだから。
と言うことで、僕もこの小説をいつものように、とても面白く読んだ。ただそれだけの話だ。
「多崎つくる」なんていう固有名詞がタイトルにある。その名前には意味はない。別に「カフカ」でもよかったのだ。この平凡とすら言えないような名前を持つ男の子が20歳のときに昔からの仲間たちに、はみられた。彼らは5人組として、ずっと一緒だった。高校を卒業しても、変わらなかった。つくるだけが名古屋を出て東京に行ったけど、変わらなかった。でも、突然幸福な時代は断ち切られる。
そして16年が経った。なぜ、彼らはつくるを絶ったのか。今、その検証の旅に出る。それだけの話である。ミステリーではない。いまさら彼らに会って何をどう切り出せばいいのか、なんて思わない。ただ、アポもなく、彼らの前に行く。会えなくてもかまわない。
人間は色彩を持つ。でも、自分にはそれがない。彼の周りにいた4人がそうだし、彼がその後かかわったわずかな人もそうだった。だが、彼がいう意味での色彩なんて持たない人のほうが多い。苗字に色が含まれる人なんて、ほんのわずかだ。僕だって「広瀬」だから、色彩を持たない。彼のこだわりは意味がない。だが、この世の中にはそんな無意味が横行する。こだわりなんてそんなものだ。だが彼はそれを手掛かりにして、自分が失ったものと向き合う。
人はある日突然理不尽な喪失を経験する(場合がある)。それは自分のせいで起こる場合もあるし、そうではない場合もある。だが、人はそこに何らかの意味を見出す。ここに描かれることは、特別だけど、誰もが経験することでもある。人は、ある日、あるいはいつの間にか、色彩を(輝きを)失う場合がある。なんだか、怖いな、と思った。
村上春樹は、何でもない日常を舞台にして、ひとりの男のある年の出来事を描いた。それだけのことだ。ストーリーを追う小説ではない。そこで立ち止まり、考える小説だ。だから、決着はつかないまま、投げ出される。でも、人生なんて、そういうものだ、と村上春樹の読者は思うから、あの終わり方でも納得する。それにしても、こんな平凡な小説に夢中になるなんて、日本人はおもしろい。そして、きっといつものように、海外でもたくさん読まれる。彼は「世界の村上春樹」なのだから。
と言うことで、僕もこの小説をいつものように、とても面白く読んだ。ただそれだけの話だ。