これは「私は私」というある1人の女性のお話。AはAというパターンで、くり返しの言葉が延々と続く。同語反復が延々と続くのだ。明確なストーリーはないけど、飽きさせないのはこの芝居は同語反復の積み重ねからある種のドラマを提示するからだ。
芝居自身はいつものパターンだが、とても新鮮。思い返すと最初に見たうさぎの喘ギ『うさり』(18)も同じ芝居が2度繰り返されるという驚きの芝居だったが、あの時は繰り返しに意味を見出せなかったから、「何で繰り返し?」と思ったのだが、今回は明確に意味を感じる。ふたつの間にある差異。芝居を見ながらその微妙な違いを噛み締めることになるのがスリリング。
今回の『いみいみ』はこれまでにも2度上演されている作品をさらにバージョンアップした再演みたいだ。僕は今回初めて見た。ひとり芝居を2人が演じる。ニュアンスの違いがまるで別の印象を与える。
宇津木千穂と三田村啓示。今回2本は別々の作品として単独上演もされるが、僕は2作品を連続上演したスペシャル版を観劇させてもらった。上演は宇津木バージョンから始まった。(こちらはBプロと書かれていたのにこちらから上演)ウイングフィールドの普段は舞台として使われている空間のみを使う。その周りに客席を作って囲み舞台とした。普段の客席部分は使わないけど、そこにも座席は用意されている。実はこの後のAプロ三田村版は通常の劇場仕様で上演されるからだ。
私は私。「天井は天井。ライトはライト。壁は壁。床は床。劇場は劇場。」冒頭のセリフが、客席にいた宇津木さんによって発せられる。座ったまま静かに話す。倒れて、客席から中央の舞台アクティングエリアへとゆっくり移動していく。起き上がり、観客から役者になる。
同語反復から生まれるドラマはひとりの女の生き様。自分(身体)のこと、コンビニでのバイト。家族、妹、幼い姪っ子。恋人とのこと。第二外国語をしゃべること。コンビニに強盗が入って撃退したことを恋人に話すが、呆れられる。心配して。彼から結婚を仄めかされるが、受け入れられない。
三田村版は、男性の話ではなく、同じテキストをそのまま使う。かなり違和感。コミカルになる。三田村さん、やりにくそう。暗闇に声がする。ゆっくりと大音量で。私は私。天井は天井、と。
男が語る女のこと。だから距離感ができる。それがもどかしい。テキストは知っている。だけどまるでニュアンスが違うから新鮮で、別物。2度連続してみる事で、繰り返しの意味が明確になってくる。自分を、できごとを、確認していく。私が私である意味、理由は「わからないが、わからない」とはっきりしてくる。