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映画・演劇のレビュー

伏兵コード『留鳥の根』

2014-02-24 19:56:22 | 演劇
 初演からキャストを一新(でも、稲田さん演じる女だけは変わらない)して、演出も今回は稲田真理さん自身が担当するOMS戯曲賞受賞公演。パンフで稲田さんが述べているように、彼女は「物語」を語りたいわけではない。そこから「できるだけ離れたい」と言う。だから、ここには明確なストーリーラインやドラマチックな展開は存在しない。予感のようなもので突き動かされる。

 登場人物は5人のみ。起伏の大きい舞台装置は、彼らの内面の象徴でもある。脳内宇宙の出来事のようにして、お話は進展する。3組の男女が登場する。舞台には彼らの居場所がちゃんと確保されている。主人公の巡査には派出所。困窮する夫婦の住む部屋。議員の男の部屋。(ここは最後まで使われない)だが、自殺しようとしていた女にはそんな場所は提供されない。彼女は、逃げ込む場所として派出所にやってくるばかりだ。彼女が一方的に愛する議員は、彼女を「もの」のように扱う。巡査はこの町のために、「町民が幸せに過ごせるように僕は太陽になりたい」と願う。彼の正義感は空回りするのではない。それすらしない。それどころか彼は反対に、ただ自閉していくばかりだ。誰もいない風景のなかで、彼ら5人の姿だけがある。浮遊するように彼らはこの町を漂う。

 素晴らしい作品だ。ただ、僕たちはもうすでに昨年の『木菟と岩礁』を見てしまっているから、どうしてもあの作品と比較してしまう。そうすると、これはいささか分が悪い。ここにはまだ作為的な「物語」の残滓があるからだ。だが、今改めてこの作品を見たとき感じたものは、このシンプルな構造の中で、稲田さんの感じる素直な気持ちが、どこまでもストレートに描かれてあることへの爽やかな感動だ。

 うら淋しい海端の村。ひとの姿はない。そこで、もがくように生きる5人の男女の姿を、彼らの関係性を通して描く。できるだけシンプルに。ここにあるのは混沌ではなく、これはとてもわかりやすく構築された答えではないか、と思う。巡査の正義は虚空をただよう。女の愛もまた。彼らが関わる「貧困」の象徴としての夫婦と、「世界」(悪意)の象徴としての議員。芝居は、彼らの間にあって翻弄される2人(警官と女)という構図だ。勝者と敗者。善と悪。だが、そんな図式なんかすぐに反転する。

 稲田さんがここで描いたことが、進化したのが『木菟と岩礁』であることは明白だろう。「地震、津波」を扱いながら、起きてしまったことと、未来への不安な予感に突き動かされるあの作品の描く世界は、僕たちを恐怖に叩き落とす。あの先には何があるのか。

 彼女がここからさらに前進するために、今一度立ち止まる機会として、今回のこの公演がある。そう理解した。ちゃんと立ち止り、ここで足踏みするのだ。自分の足元をしっかり固めなくては先には行けない。慎重に前進する。

 だから、来年1月の新作が今から楽しみでならない。彼女がここから、どこへと向かうのか。待ちきれない。だって、これは彼女だけの問題ではないからだ。それは僕たちみんなの未来でもある。

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