この劇団はとてもおもしろい発想をする。見せ方も個性的で悪くない。自分たちのスタイルをしっかり持っていて、その方法論を実践している。様々な実験を試みてくれるので毎回楽しい。 だけれども、いつも頭でっかちで内容がスタイルに追いつかない。手段にばかり気を取られて、それだけで自己満足している。いくら形が面白くても中身がなくては無意味だと思うが。
もちろんスタイルが内容を凌駕するなんて場合もないではない。要は面白ければいいのだ。そういう意味で、これは残念だが、発想の面白さを上回る面白さはない。途中からは退屈ですらあった。2時間は長すぎる。
母と娘の話である。母は娘の日記を盗み見る。それを知った娘は、同じように母の日記を盗み見する。母の日記の中には娘である自分は存在しない。その代わりに日記の中では彼女には息子がいて、その息子との生活が綴られている。芝居は現実の2人と母に綴る妄想の間を行き来する。2人を捨ててこの家を出て行った父親に会いに行き、そのことを日記に書く。母が幻の息子を描くのならば、自分は居なくなった父を日記に登場させることで対抗する。話の展開は上手い。しかし、この面白い話を、あまりに定型化された見せ方によって、作品世界に立ち入らせないようにして見せてしまう。
これは会話劇ではない。2人の日記を交互に朗読していく過程が描かれる。直立不動の姿勢で淡々と日記が読まれていくだけ。そのあまりの単調さに眠くなってしまう。途中休憩が入り、そこで娘の友だちの男が、出てきてその男もまた彼女の日記を朗読する。彼が読む部分は開演前に観客にも配布されている。男はただ読むのではなく、簡単な解説や意見を挟んでいく。
芝居は題材との距離感を一番のポイントにしてしまう。観客から遠くに芝居がある。このお話にのめり込ませないようにする。お話を遠くの出来事にして、あくまでも人ごととして見せる。だいたい主人公の2人自体が熱くなったりしないし、そんな2人を見守る男2人もまた彼女たちと適度な距離をとっている。芝居のタイトルが『適切な距離』である以上、彼らのこの立ち位置こそが、重要な問題なのだろう。
すべてを客観化して、どこかに拠点を置いたりもしない。母と娘の間に生じた齟齬を突き詰めることなく傍観者的な視点で描く。遠近法を示すような舞台空間の設定も含めて、いろんな意味での意図はわかる。しかし、そうすることで見せたかったものは伝わらない。ねらいは見えるが、その意図が見えないのが歯痒い。
もちろんスタイルが内容を凌駕するなんて場合もないではない。要は面白ければいいのだ。そういう意味で、これは残念だが、発想の面白さを上回る面白さはない。途中からは退屈ですらあった。2時間は長すぎる。
母と娘の話である。母は娘の日記を盗み見る。それを知った娘は、同じように母の日記を盗み見する。母の日記の中には娘である自分は存在しない。その代わりに日記の中では彼女には息子がいて、その息子との生活が綴られている。芝居は現実の2人と母に綴る妄想の間を行き来する。2人を捨ててこの家を出て行った父親に会いに行き、そのことを日記に書く。母が幻の息子を描くのならば、自分は居なくなった父を日記に登場させることで対抗する。話の展開は上手い。しかし、この面白い話を、あまりに定型化された見せ方によって、作品世界に立ち入らせないようにして見せてしまう。
これは会話劇ではない。2人の日記を交互に朗読していく過程が描かれる。直立不動の姿勢で淡々と日記が読まれていくだけ。そのあまりの単調さに眠くなってしまう。途中休憩が入り、そこで娘の友だちの男が、出てきてその男もまた彼女の日記を朗読する。彼が読む部分は開演前に観客にも配布されている。男はただ読むのではなく、簡単な解説や意見を挟んでいく。
芝居は題材との距離感を一番のポイントにしてしまう。観客から遠くに芝居がある。このお話にのめり込ませないようにする。お話を遠くの出来事にして、あくまでも人ごととして見せる。だいたい主人公の2人自体が熱くなったりしないし、そんな2人を見守る男2人もまた彼女たちと適度な距離をとっている。芝居のタイトルが『適切な距離』である以上、彼らのこの立ち位置こそが、重要な問題なのだろう。
すべてを客観化して、どこかに拠点を置いたりもしない。母と娘の間に生じた齟齬を突き詰めることなく傍観者的な視点で描く。遠近法を示すような舞台空間の設定も含めて、いろんな意味での意図はわかる。しかし、そうすることで見せたかったものは伝わらない。ねらいは見えるが、その意図が見えないのが歯痒い。