お話は1900年のフランス万博の前年、1899年パリで始まる。日本からやってきた青年コウヤが主人公だ。19世紀の終わりから21世紀の始まりまで、100年余の歳月を生きた彼の孤独を描く。永遠の命を手にしたものの苦悩をリアルに描いていくのだ。マンガチックで、荒唐無稽はものにもなりかねないような話なのだが、そうはならない。
今から100年以上前のパリの風景をリアルに描くことからスタートして、そこに紛れ込み、ムーランルージュで踊るひとりのダンサーに心惹かれていく日本人外交官の恋の物語を描く、というのが最初の話の骨格のなのだが、それはまるで森鴎外の『舞姫』を想起させる。これは辻仁成版『舞姫』そのものなのだが、それが、やがて思いもしない話へと転換していくこととなる。
これは永遠の命を持つ者の話だ。女カミーユはすでに100年以上の命を持ち、コウヤもまた、彼女の導きにより、同じように永遠の命を手にする。話は、40年後の日本へ、飛ぶ。さらには、その30年後、大阪万博のやってきた彼がそこで再び、彼女を目撃する。めまぐるしい展開の中で、永遠の若さと、命を手にした男のドラマはやがて、現代へと加速していく。
壮大なスケールのドラマなのだが、人の命、人類の進歩を鳥瞰的な視点から見守ると同時に、とてもささやかな人の営みを、じっくりと描く視点を持ち、この2つの次元から、世界をみつめるドラマ作りはとてもうまい。読みながら、人間って、何なんだろうか、と考えさせられることになる大河ドラマだ。雑誌掲載時の『20世紀博覧会』というタイトルを改題し、この『永遠者』にしたのもうなずける。
先日、パリに行ったのだが、街を歩いていて感じた歴史の中を歩いているような感覚が、この小説を読むうえで、とても参考になった。まるで自分の目で見たパリの町と、この小説が描く100年以上前の風景が、ところどころで、微妙に重なる。モンマルトルの丘の上を歩き、ムーランルージュの前に立ち止まり見た風景は、この小説のスタート地点で主人公のコウヤが見たものとつながるように思えた。どんどん様変わりしていく街、東京との対比も鮮やかだ。変わらない町と変わり続ける街。
パリ万博と大阪万博の違いに触れた部分もとてもおもしろかった。40数年前、子供だった僕が見た千里の丘は、ほんものの未来都市に思えた。だが、あれはただの幻でしかなかったのかもしれない。大阪万博という夢の時間から、遠く離れた今、僕たちはどこにむかっているのだろうか。そんなことを改めて考えさせられる。あの頃、初めて世界というものを体で感じた。この世の中にはたくさんの国があり、そこではさまざまな営みがある。小学生の僕があの場所で感じた様々な想いがよみがえってくる。だが、今の目で、あの万博を見たならば、コウヤと同じようにただのはりぼての未来にしか見えないかもしれない。
永遠の命を断ち切ろうとするラストは、スリリングだが、そこに3・11を重ねてしまうのは、ちょっとやりすぎだろう。チェルノブイリや、9・11という歴史的惨劇をとりこみ、それがカミーユによる世界崩壊の序曲としてみせていくところから、少し違和感があったのだが、あのラストはあまりに強引でつまらない。
とはいえ、19世紀から21世紀へと、3つの世紀を跨いで生き続ける運命を得たこのひとりの青年(彼は27歳のまま老いない)の物語は、永遠の命とは何か、というテーマへのひとつのアプローチとして、とても興味深い。本筋とは関係ない部分でも、なんだかいろんなことを考えさせられる小説だった。
今から100年以上前のパリの風景をリアルに描くことからスタートして、そこに紛れ込み、ムーランルージュで踊るひとりのダンサーに心惹かれていく日本人外交官の恋の物語を描く、というのが最初の話の骨格のなのだが、それはまるで森鴎外の『舞姫』を想起させる。これは辻仁成版『舞姫』そのものなのだが、それが、やがて思いもしない話へと転換していくこととなる。
これは永遠の命を持つ者の話だ。女カミーユはすでに100年以上の命を持ち、コウヤもまた、彼女の導きにより、同じように永遠の命を手にする。話は、40年後の日本へ、飛ぶ。さらには、その30年後、大阪万博のやってきた彼がそこで再び、彼女を目撃する。めまぐるしい展開の中で、永遠の若さと、命を手にした男のドラマはやがて、現代へと加速していく。
壮大なスケールのドラマなのだが、人の命、人類の進歩を鳥瞰的な視点から見守ると同時に、とてもささやかな人の営みを、じっくりと描く視点を持ち、この2つの次元から、世界をみつめるドラマ作りはとてもうまい。読みながら、人間って、何なんだろうか、と考えさせられることになる大河ドラマだ。雑誌掲載時の『20世紀博覧会』というタイトルを改題し、この『永遠者』にしたのもうなずける。
先日、パリに行ったのだが、街を歩いていて感じた歴史の中を歩いているような感覚が、この小説を読むうえで、とても参考になった。まるで自分の目で見たパリの町と、この小説が描く100年以上前の風景が、ところどころで、微妙に重なる。モンマルトルの丘の上を歩き、ムーランルージュの前に立ち止まり見た風景は、この小説のスタート地点で主人公のコウヤが見たものとつながるように思えた。どんどん様変わりしていく街、東京との対比も鮮やかだ。変わらない町と変わり続ける街。
パリ万博と大阪万博の違いに触れた部分もとてもおもしろかった。40数年前、子供だった僕が見た千里の丘は、ほんものの未来都市に思えた。だが、あれはただの幻でしかなかったのかもしれない。大阪万博という夢の時間から、遠く離れた今、僕たちはどこにむかっているのだろうか。そんなことを改めて考えさせられる。あの頃、初めて世界というものを体で感じた。この世の中にはたくさんの国があり、そこではさまざまな営みがある。小学生の僕があの場所で感じた様々な想いがよみがえってくる。だが、今の目で、あの万博を見たならば、コウヤと同じようにただのはりぼての未来にしか見えないかもしれない。
永遠の命を断ち切ろうとするラストは、スリリングだが、そこに3・11を重ねてしまうのは、ちょっとやりすぎだろう。チェルノブイリや、9・11という歴史的惨劇をとりこみ、それがカミーユによる世界崩壊の序曲としてみせていくところから、少し違和感があったのだが、あのラストはあまりに強引でつまらない。
とはいえ、19世紀から21世紀へと、3つの世紀を跨いで生き続ける運命を得たこのひとりの青年(彼は27歳のまま老いない)の物語は、永遠の命とは何か、というテーマへのひとつのアプローチとして、とても興味深い。本筋とは関係ない部分でも、なんだかいろんなことを考えさせられる小説だった。