
3話からなるオムニバス・スタイルの作品。一見、とても軽いタッチの作品のようだが、実は決して軽い芝居ではない。朝鮮に伝わる民話をベースにした3つのエピソードがホラータッチの本筋のお話に挟まれる。両者はもちろんリンクする。
全体は2時間40分という長尺である。そういうところもMayらしくていい。これは本当なら2時間以内にまとめるべき素材だろう。そして、それは十分可能な作業だ。だが、作、演出の金哲義さんは敢えてそうはしない。悠々たるタッチで見せる。だが、さすがに観客が疲れると自覚したのか、3話目は変化をつけてマダン劇にした。だが、それは墓穴を掘ることになる。だってマダン劇にすると上演時間はさらにどんどん伸びるからだ。でも、彼はそんなことも気にしない。
主人公である男(柴崎辰治)が家に帰ると、そこにはへんな子供が居て、いきなり彼に斬りかかってくる。「トッケビ」と呼ばれる妖怪だ。なぜトッケビが現れたのか。その謎を解く話と、3話の独立した話が絡まる。第1話はユニ(ふくだひと美)という女性の生涯を描く。同時にそれは「トッケビを迎え入れたことで何が起きたか」が描かれる始まりのドラマとなる。現代から一気に日本統治下の朝鮮へ遡る。この作品は3つのトッケビを巡る話で構成される。
金哲義さんは、スピード感のあるドラマ作りをしない。じっくりと見せる。ユニの話だけで全体をまとめてもいいくらいのタッチだ。短編連作ではなく、独立した中編のスケールを持たせる。丁寧にひとつひとつの話を見せていく。土俗的な語り口で、ホラータッチの現代の話とつなぐ。そして、そこから未来へと向かう。気負うことなく、今ここにいて時代はどんどん加速しながら変わっていく中で、それでも変わらないものがある。これはそんな自分たちの今をみつめるMay20周年記念作品なのだ。
金さんにとってこの作品は新たなステージに挑むスタートとなるものだ。前作『ファンタスマゴリー』を助走とするなら、これはスタートラインを示す。ここで描くのは「未来」だ。今までは過去を振り返り、そこから自分たちの立ち位置を見定める作業をしてきたが、もうやるべきことはやり遂げた。
だが、ここからは未体験ゾーンである。そこで武器とするのは想像力しかない。それがファンタジーの手法を取り込むことだった。しかし、それは今までのやり方と相容れない。もちろんこれまでだって完全なリアリズムではなかったから、要はバランスの問題なのだ。でも、かなり難しい。
今、Mayは過渡期にある。それまでのリアリズムの文体からファンタジーの方へと移行させているのだが、そのへんのバランスのとり方は本当に難しい。過去を振り返り、しっかり自分たちを検証することで、これから先に向かっていくうえでの礎とする、という姿勢は、魂の叙事詩とも言える『ボクサー』で頂点を極め、さらには『ビリー・ウエスト』でなんとその先にまで到達した。あの作品の凄いところは、リアルとファンタジーの絶妙なバランスにある。奇跡のような傑作である。だから、さらにその先を行くのは至難の道となる。だが、これまでの作品に決着をつけた以上、次のステップへ向かうのは当然の話だ。
何度も書くが、ドラマ作りのベースをファンタジーの側に置くのは、難しい。それは自分の想像力に拠点を置くことだ。自らのアイデンティティをたどることで、世界と自分のあり方を見つめてきた彼にとって、その関係性をよりどころにせずに世界と向き合うのはつらい。そこで今回はトッケビである。民話の語り口を入り口にして、恐怖の先にあるものを見つめる。彼は、形のないものと格闘し、新しい第一歩をまず踏み出した。
全体は2時間40分という長尺である。そういうところもMayらしくていい。これは本当なら2時間以内にまとめるべき素材だろう。そして、それは十分可能な作業だ。だが、作、演出の金哲義さんは敢えてそうはしない。悠々たるタッチで見せる。だが、さすがに観客が疲れると自覚したのか、3話目は変化をつけてマダン劇にした。だが、それは墓穴を掘ることになる。だってマダン劇にすると上演時間はさらにどんどん伸びるからだ。でも、彼はそんなことも気にしない。
主人公である男(柴崎辰治)が家に帰ると、そこにはへんな子供が居て、いきなり彼に斬りかかってくる。「トッケビ」と呼ばれる妖怪だ。なぜトッケビが現れたのか。その謎を解く話と、3話の独立した話が絡まる。第1話はユニ(ふくだひと美)という女性の生涯を描く。同時にそれは「トッケビを迎え入れたことで何が起きたか」が描かれる始まりのドラマとなる。現代から一気に日本統治下の朝鮮へ遡る。この作品は3つのトッケビを巡る話で構成される。
金哲義さんは、スピード感のあるドラマ作りをしない。じっくりと見せる。ユニの話だけで全体をまとめてもいいくらいのタッチだ。短編連作ではなく、独立した中編のスケールを持たせる。丁寧にひとつひとつの話を見せていく。土俗的な語り口で、ホラータッチの現代の話とつなぐ。そして、そこから未来へと向かう。気負うことなく、今ここにいて時代はどんどん加速しながら変わっていく中で、それでも変わらないものがある。これはそんな自分たちの今をみつめるMay20周年記念作品なのだ。
金さんにとってこの作品は新たなステージに挑むスタートとなるものだ。前作『ファンタスマゴリー』を助走とするなら、これはスタートラインを示す。ここで描くのは「未来」だ。今までは過去を振り返り、そこから自分たちの立ち位置を見定める作業をしてきたが、もうやるべきことはやり遂げた。
だが、ここからは未体験ゾーンである。そこで武器とするのは想像力しかない。それがファンタジーの手法を取り込むことだった。しかし、それは今までのやり方と相容れない。もちろんこれまでだって完全なリアリズムではなかったから、要はバランスの問題なのだ。でも、かなり難しい。
今、Mayは過渡期にある。それまでのリアリズムの文体からファンタジーの方へと移行させているのだが、そのへんのバランスのとり方は本当に難しい。過去を振り返り、しっかり自分たちを検証することで、これから先に向かっていくうえでの礎とする、という姿勢は、魂の叙事詩とも言える『ボクサー』で頂点を極め、さらには『ビリー・ウエスト』でなんとその先にまで到達した。あの作品の凄いところは、リアルとファンタジーの絶妙なバランスにある。奇跡のような傑作である。だから、さらにその先を行くのは至難の道となる。だが、これまでの作品に決着をつけた以上、次のステップへ向かうのは当然の話だ。
何度も書くが、ドラマ作りのベースをファンタジーの側に置くのは、難しい。それは自分の想像力に拠点を置くことだ。自らのアイデンティティをたどることで、世界と自分のあり方を見つめてきた彼にとって、その関係性をよりどころにせずに世界と向き合うのはつらい。そこで今回はトッケビである。民話の語り口を入り口にして、恐怖の先にあるものを見つめる。彼は、形のないものと格闘し、新しい第一歩をまず踏み出した。