
このタイトルはかなり嫌だ。別に自分のことを言われているわけではないが、こんな本を読んでいるおまえはきっと心当たりあるだろ、と言われているような気になる。かなり挑発的なタイトルというしかない。角田光代はもの凄くいじわるである。
前作の『三面記事小説』に続いて今回も人間のとても嫌な面をしっかり突いてくる。老いた母と、中年になった息子(あるいは娘)を主人公にした短編連作。8編とも読み終わったら暗い気持ちになるものばかりだ。(唯一ラストの『初恋ツァー』のみは少し明るいが)
老いた母親の行く末を案じる余裕すらない子供たち。それでも、母のことが気にならないわけではない。だが、母のことを考えると気分が悪くなってしまう。これから先の生活のこと、介護の問題など。正直言って自分の人生すらままならないのに、どうして彼女(もちろん母親のことだ)の面倒まで見なくてはならないのか、と思う気持ちもある。
そんな子供たちのことを角田光代はあえてマザコンの一言で括ってしまう。マザコンと言われて喜ぶような子供はいないだろう。しかし、不愉快を承知の上でそう切り捨てる。この短編集はそこから見えてくるものを我々に提示していく。
8編とも心に沁みてくる作品だったが、そんな中で一番は『雨をわたる』であろう。フィリピンの老人介護施設で暮らす母を訪ねていく娘を描く作品だ。誰の世話にもならず、自分のお金でここに入所し、生活する。そんな母親に対する違和感。自分ひとりで完結してしまった母を「知らない女みたい」と娘は思う。そんな母にイライラしている。かといって、母の老後を引き受けるつもりは毛頭ない。それより何より彼女(もちろん母である)が、そんなことを望みはしない。理不尽な思いが、マニラの快適な施設で悠々自適なセカンドライフを送る母の姿を通して描かれる。
母は幸せに暮らしているわけではない。自分の人生に対して終始文句を言い続けて生きてきた母がおとなしく何の文句も言わずに生活している姿を見て、どうしようもない苛立ちを覚える。母は人生を諦めてしまっている。その事実を受け入れられない娘の自分がいる。母はここで暮らすことで自分を捨てた。そんなふうにして生きる母を可哀想と思うのではない。ここにあるのは意味のない不快感だ。自分自身が納得しない。わがままと言えばこれほどわがままなことはない。しかし、どうしようもない。そんな娘の思いだ描かれる。
この気分は、この1篇だけでなくこの短編集全てに共通する。穏やかな不快感。母を抱え込むのではない。距離を置いて見つめる。そこに生じる思い。
仕事をなくし無一文になった男が行きずりの女と過ごす一夜を描く『空を蹴る』。離婚したことを母に言えないまま、入院した母の育てていたインコの世話をすることになる女を描く『鳥を運ぶ』。ぼけてしまった母のもとに行く女(『パセリと温泉』)や妻にマザコンと言われ憤慨する男(『マザコン』)、老いた母と2人暮らしの女(『ふたり暮らし』)、仕事をやめシナリオライターになろうとして妻に逃げられた男(『クライ・ベイビイ・クライ』)。出てくる子供たちはみんな問題を抱えている。そんな問題をもう母にぶつけることは出来ない。だいたい母の存在自身がさらなる問題でもある。
考えるまでもない。ここには、同じような設定の作品が並ぶ。そんな中で前述の『初恋ツァー』だけが異質だ。義母の初恋の人を探すために札幌までついて行く嫁と夫の話だ。だが、ここでも夫(息子)は自分の知らない母の一面に対して嫌悪感を抱いている。この距離感は共通する。自分と母との距離。自分のことで手一杯の勝手な子供たちだが、心の片隅で確実に母を追い求めている。そのことを認めようとしない。こんな子供たちを角田光代は《マザコン》と呼ぶ。
40歳前後になった子供と、70代になった母親。この小説はこの微妙な図式から立ち現れてくるものを見事に捉える。嫌な小説だが、ここから目を逸らせない。
前作の『三面記事小説』に続いて今回も人間のとても嫌な面をしっかり突いてくる。老いた母と、中年になった息子(あるいは娘)を主人公にした短編連作。8編とも読み終わったら暗い気持ちになるものばかりだ。(唯一ラストの『初恋ツァー』のみは少し明るいが)
老いた母親の行く末を案じる余裕すらない子供たち。それでも、母のことが気にならないわけではない。だが、母のことを考えると気分が悪くなってしまう。これから先の生活のこと、介護の問題など。正直言って自分の人生すらままならないのに、どうして彼女(もちろん母親のことだ)の面倒まで見なくてはならないのか、と思う気持ちもある。
そんな子供たちのことを角田光代はあえてマザコンの一言で括ってしまう。マザコンと言われて喜ぶような子供はいないだろう。しかし、不愉快を承知の上でそう切り捨てる。この短編集はそこから見えてくるものを我々に提示していく。
8編とも心に沁みてくる作品だったが、そんな中で一番は『雨をわたる』であろう。フィリピンの老人介護施設で暮らす母を訪ねていく娘を描く作品だ。誰の世話にもならず、自分のお金でここに入所し、生活する。そんな母親に対する違和感。自分ひとりで完結してしまった母を「知らない女みたい」と娘は思う。そんな母にイライラしている。かといって、母の老後を引き受けるつもりは毛頭ない。それより何より彼女(もちろん母である)が、そんなことを望みはしない。理不尽な思いが、マニラの快適な施設で悠々自適なセカンドライフを送る母の姿を通して描かれる。
母は幸せに暮らしているわけではない。自分の人生に対して終始文句を言い続けて生きてきた母がおとなしく何の文句も言わずに生活している姿を見て、どうしようもない苛立ちを覚える。母は人生を諦めてしまっている。その事実を受け入れられない娘の自分がいる。母はここで暮らすことで自分を捨てた。そんなふうにして生きる母を可哀想と思うのではない。ここにあるのは意味のない不快感だ。自分自身が納得しない。わがままと言えばこれほどわがままなことはない。しかし、どうしようもない。そんな娘の思いだ描かれる。
この気分は、この1篇だけでなくこの短編集全てに共通する。穏やかな不快感。母を抱え込むのではない。距離を置いて見つめる。そこに生じる思い。
仕事をなくし無一文になった男が行きずりの女と過ごす一夜を描く『空を蹴る』。離婚したことを母に言えないまま、入院した母の育てていたインコの世話をすることになる女を描く『鳥を運ぶ』。ぼけてしまった母のもとに行く女(『パセリと温泉』)や妻にマザコンと言われ憤慨する男(『マザコン』)、老いた母と2人暮らしの女(『ふたり暮らし』)、仕事をやめシナリオライターになろうとして妻に逃げられた男(『クライ・ベイビイ・クライ』)。出てくる子供たちはみんな問題を抱えている。そんな問題をもう母にぶつけることは出来ない。だいたい母の存在自身がさらなる問題でもある。
考えるまでもない。ここには、同じような設定の作品が並ぶ。そんな中で前述の『初恋ツァー』だけが異質だ。義母の初恋の人を探すために札幌までついて行く嫁と夫の話だ。だが、ここでも夫(息子)は自分の知らない母の一面に対して嫌悪感を抱いている。この距離感は共通する。自分と母との距離。自分のことで手一杯の勝手な子供たちだが、心の片隅で確実に母を追い求めている。そのことを認めようとしない。こんな子供たちを角田光代は《マザコン》と呼ぶ。
40歳前後になった子供と、70代になった母親。この小説はこの微妙な図式から立ち現れてくるものを見事に捉える。嫌な小説だが、ここから目を逸らせない。