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映画・演劇のレビュー

『12人の怒れる男』

2009-07-25 17:59:55 | 映画
 ニキータ・ミハルコフ監督の久々の新作がなぜシドニー・ルメットのクラシックのリメイクなのか。不思議でならなかった。今、なぜ『12人の怒れる男』がロシアに必要なのか。民主主義の原点にもう一度立ち返れとでも言うつもりなのか。だが、そんな単純な問題ではないはずだ。現代のロシアを舞台にして、50年も前のアメリカを舞台にしたヒューマン・ドラマが、どれだけの力を持つか。疑問ばかりが湧き上がる。だから、これは自分の目で確かめるしかない。

 2時間40分の大作である。なぜこんなにも長い映画になったのかは、これが12人のそれぞれのドラマをきちんと追いかけたことにもよる。本筋から逸脱してもいい。と、言うのか。このお話は少年の義父殺しという本筋自身に集約されていくドラマではないのだ。犯人探しにもならないし、少年の内面にも迫らない。さまざまな要素をごった煮にして、ロシアの混沌とした現状を描く。それをアメリカの正義を描くお話の枠の中に収めることで、ソ連崩壊以後、ロシアがたどった道がなんなのかを問いかけることにもなる。アメリカが正しいだなんて、もう誰も思わない。それは社会主義が失敗だったとか思わないのと同じだ。問題は社会体制にはない。では、どこにあるのか。

 この映画は、少年が祖国で何を見たのか、が根底にある。チェチェンで見たもの。それが強烈な描写で寡黙に描かれる。すさまじい描写が続く。それをただ淡々と見せる。破壊と殺戮。少年は両親を失い、ロシア軍の将校だった男によってモスクワに連れられてこられた。

 ここでの生活は描かれない。義父を殺され、犯人扱いされて拘留され、裁判にかけられる。満足に言葉も話せない少年はなされるがまま留置され、判決を待つ。その事実があるだけだ。彼が何を思い、何を考え牢獄にいたのかは一切語られない。

 ここで描かれるのは、有罪だと思われた少年を無実にする、という12人の陪審員たちの正義ではない。それどころか、彼らはただ、自分たちのことしか考えてないように見える。少年の事件を通して自分を語るばかりだ。彼らにとって少年の事件は人事でしかない。だが、自分たちの内面を語り合うことで徐々に変わってくる。こう書けばよくあるヒューマン映画のようだが、ミハルコフはそんなありきたりな映画は撮らない。これは告発でもないし、人間の優しさを描く映画でもない。

 ただ、まず、チェチェンを見よ。そして、そこから何ができるかを考えよ、と言うだけだ。脆弱なヒューマニズムなんて受け付けない。オリジナルのお話の骨格だけを使って、この話には何の力もないことを描く。ラストで陪審員の一人が、少年を引き取る。そして、一緒に犯人捜しをしよう、と彼に言う。生き残るためには闘うしかないのだ。

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