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新い都市の魅力・・・シンボルとしての建築①

2013-11-05 07:26:00 | 時事/金融危機
 

昨日アップした記事は1時間くらいで書きなぐったので、「建築の歴史と流行」編と、「新国立競技場を巡る論争編」に分けてまとめたいと思います。(自分の勉強も兼ねて)




新国立競技場デザイン案  ザハ・ハディド

■ アンビルトの女王 ■

新国立競技場のデザインと建築を巡って、いろいろな論争が巻き起こっています。

国際コンペで選ばれたのは、イラク出身のイギリスの著名建築家、ザハ・ハディド氏のデザイン。彼女は建築のノーベル賞と呼ばれる プリツカー賞を女性で始めて受賞しています。

一方で彼女は「アンビルとの女王」と呼ばれ、かつては実現した建築の少ない事で名を馳せました。「アンビルト」とは「実際には建たない」という意味で、デザインや設計コンセプトは先鋭的であるのに対して、技術的に実現性が乏しかったり、実用性とコストのバランスが取れない為に実際に建設される事の無い設計の事を指す言葉です。

ハディド氏は、「脱構築主義」と呼ばれる一派に属しています。「脱構築主義」は「ポストモダン」と総称される建築運動の一つです。

■ モダニズムへの反省としての人間性への回帰=ポストモダン ■

現代建築は「合理性を優先し、デザイはその機能性の表れである」というモダニズムの思想に支えられてきました。その結果、「無機質で直線的」な建築が都市を埋め尽くします。「コンクリートジャングル」などと揶揄される様に、モダニズムにおいて人間的な曖昧さや、近代以前の非効率は切り捨てられてきいました。

社会が成熟するに従って、モダニズムに対する反動が生まれてきました。
それが「ポストモダン」です。これは様々な芸術や社会のジャンルで並行して発生し、影響を及ぼし合いましたが、建築の分野では1980年代から台頭します。

「合理性」をあえて無視する事で、「モダニズムが忘れてきてしまった物」を取り戻そうとしたのです。

■ 初期のポストモダンの建築 ■

建築における初期のポストモダンは「形態の回復」からスタートします。モダンにズムの建築物は構造と経済的合理性から直線で構成された「箱」の形態をしています。

その単なる「箱」に、古代からの建築の様式を折衷的に取り入れる事で、建築がかつて持っていた「象徴性」や「神性」や「建築の歴史」そのものを近代建築に取り込もうとしたのです。


隈研吾 M2ビル 1991年

上の写真は新国立美術館を設計した隈研吾氏が設計したM2ビルですが、これが良くも悪くも当時のポストモンンの特徴を良く現しています。現代建築は建築技術の進歩によって、構造的制約から自由になってきました。近代建築は構造が建物のデザインを決める需要な要素でしたが、現代建築はそれから解き放たれる事で、「形態」をある程度自由にデザインする事が可能になりました。

M2ビルでは古代ギリリシャ建築の「円柱」を「モニュメンタル」に中央に配し、その周囲をアーチを特徴とす中世の建築様式や、ガラスを素材とする現代の建築様式で取り囲むことによて、「建築の歴史」を一つの建物で表現しようとしています。

この建築に関しては当時から賛否両論あって、「表現が直接的過ぎる」という否定的な意見も多かったと思います。マツダのショールームであった事から、「目立つ事」も大事な要素だったのですが、一時隆盛を極めた「アカラサマなポストモダン」は、その後徐々に勢いを失って行きます。建築コストの合理性に劣るこれらの建築は、バブルの遺産とも言えます。

■ モダンの延長線上にあるポストモダン ■



菊竹清訓 江戸東京博物館 1993年 


菊竹清訓 ソフィテル東京 1994年 (現存せず)

上の写真は故・菊竹清訓氏が設計した江戸東京博物館とソフィテル東京ホテルです。直線的なデザインなので、隈研吾氏のデザインと大分イメージが違いますが、これも代表的なポストモダンの建築です。

菊竹氏は1928年生まれで、黒川紀章氏らと同時代の人ですので、隈研吾氏らよりは2世代くらい前の建築家になります。丹下建造氏らもこの時代の大家です。彼らも若い頃にモダニズムの建築に対する反抗から注目される様になった建築家達ですが、その「反抗」は、1980年代のポストモダンの様な表層的なものでは無く、「モダン建築のあり方に対する根源的な反抗」でした。

例えば、「巨大な構造物である建築と重力との葛藤」であったり、「積層に対するモジュールとしての建築単位の変換」であったり、「古典的な建築とモダンデザインの対比」であったりします。

菊竹氏の上の2作品は、当時、若い建築家からは不評だったと記憶しておりますが、私は磯崎新氏らの「言葉で説明しなければ分からない」ポストモダンへのアンチテーゼとして、非常に直観的で素晴しい作品であたと思っています。日本建築をモチーフに、をれを現代建築の用語で表現し直しているのですが、やはり、「現代の建築技術だからこそ出来る」という事を非常に重要視している建築です。これらの作品に関しては、建築の構造がデザインにダイレクトに影響を与えており、その意味において、その後の構造設計の飛躍的進歩によって発生した、「構造で建築をデザインする」挑戦にある意味において近いものを感じます。(手分、ディテールの処理がシンプルなので、当時は磯崎氏らに比べ、建築界では人気が無かったのでしょうが、伊東豊雄氏や妹島氏らが、菊竹氏や丹下氏の思想をかなり洗練された形で継承したと私は考えています。)

現在日本を代表する伊東豊雄氏は1960年代に菊竹氏の事務所で働いていましたが、彼は菊竹氏を「恐らくこのような狂気を秘めた建築家が今後あらわれることはないだろう」と高く評価していた様です。


■ 「言語」や「哲学」としての建築 ■

日本のポストモダンの建築家で最も有名なのは磯崎新氏です。
磯崎氏は1931年の生まれですから上で紹介した菊竹氏と同年代です。
しかし、彼の建築理論は、同年代の建築家達とは全く異質です。


磯崎新 北九州市美術館   1974年

北九州市美術館は磯崎氏の初期の傑作です。二本の直方体が大砲の様に突き出す姿はインパクトがありますが、建物はキューブの組み合わせで出来ています。近代建築の要素を徹底的にシンプル化したキューブという形状を再構築する事で、新たな表現を生み出す方法は、「解体と再構築」というポストモンダの手法そのものと言えます。


磯崎新   御茶ノ水スクエアー  1987年

上の写真は東京御茶ノ水に「旧主婦の友社(御茶ノ水スクエアー)」ですが、初期の「構成主義的」な手法から、「古典建築のイメージ」を上手に取り入れて建築的な豊かさが増しています。

低層はW.ヴォーリズの設計による旧館のファサードを保存してたてられた文化複合施設で、高層は、スクエアーやキューブとうモダンな造形言語を用いて、過去の建築を単純化して表現しています。隈氏のM2ビルが明らかに「異質」な存在として街の景観から浮き上がっているのに対して、御茶ノ水スクエアーは低層も高層も町並みに自然に溶け込んでいます。それでいながら建築としての主張は非常に強いものを感じます。


磯崎新  岡山西警察署   1996年

派手な折衷主義的なポストモダンはバブル期が沢山出現しますが、バブル後もコンスタントにプロジェクトが実現した建築家は磯崎氏でした。上の岡山西警察署は、ギリシャ建築の円柱をモチーフにしていますが、それを非常に現代的なミニマリズムに上手く昇華させています。もうセンスとしか言いようがありません。


磯崎新 グランシップ(静岡県舞台芸術センター) 1997年

一方でこの時代から、磯崎氏の作品には曲線が増えて来ます。グランシップは新幹線で静岡駅の手前に突然現れる巨大な建造物ですが、まさに船を思わせる形をしています。劇場ホールを含む様々な複合施設で、まさに「箱物」の王者の様な施設です。

ところで、私はこの頃から磯崎氏の建築が理解し難い物に変わっていった様に思われます。初期の構成的な面白さや、80年代のセンスの良い折衷主義や古典要素の現代的アレンジは分かり易く、見ていても飽きません。しかし、グランシップは分からない・・。「何で船なの?」。そこは、磯崎氏の大量の著作を読めという事なのかも知れませんが、説明しなければ分からない建築というのも・・・。






局面を多用し始めた磯崎氏の建築を見ると、無意識にこんなんのが脳裏に浮かんでしまいます。私の勝手な想像では、この時代の磯崎氏は「形態」とか「建築様式」からさらに踏み込んで、建築の持つ「土着的力」や「一種のアミニズム」の様な効果に着目していたのかも知れません。それこそ、山をくり抜いても建築として成り立ちますし・・・・。


磯崎新  富山県立山博物館  1991年


それが富山県立博物館の様な比較的小規模な建築では上手く機能していたと思うのですが、「グランシップ」や「なら100年会館」の様な大きな建造物では、何だか良く分からない塊になってしまう様に感じます。多分、土着的な建築のスケールを越えてしまうので、「山」みたいに見えてしまう事が原因なのかも知れません。

■ ポストモダンの退潮と新しい建築 ■

何れににして、この頃から公共事業の削減の影響が顕著になり、磯崎氏の作品も国内で建つ事な無くなって行きます。今では海外での活躍が目立つ様になりました。


一方で、技術の進歩は、モダンニズムにも大きな影響を及ぼし、建築の機械的、構造的美学を追及していたモダニズムが、ポストモダンを吸収する形で著しい進化を始めます。この建築の新しいムーブメントの前に旧来のモダニズムは退潮して行きます。


一方で、建築のテクノロジーの進歩が、ザハ・ハディド氏らの様な「ラディカルなポストモダン」の建築を実現可能にしました。現在はモダニズムとポストモダンの境界が限りなく曖昧になった時代とも言えます。そこ変は、また明日。




本日は磯崎ファンから石を投げられそうな内容になりましたが、バブルの時代を懐かしみながら、ポストモダンに建築について振り返ってみました。

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