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封殺される科学・・・犠牲を強要する社会

2011-10-02 08:50:00 | 福島原発事故
 
■ はじめに、おことわり申し上げます ■ 

このブログは色々と不謹慎な事を書いていますので、
本日はちょっと過激な文書を書こうと思います。

私が福島原発周辺の方達に冷淡と受け止められると不本意なのですが、
現在日本を覆う、「同質化の空気」を吹き払わない限り、
福島は不幸の大地であり続けなければならないという、
逆説的な発想で読んでいただければ幸いです。

■ 同質化を強要し、そして同質に安心する日本人 ■


放射線で一番問題なのは、今回も明らかの様に議論が成り立たない事です。

1(mSv/年)まで危険と言うLNT仮説がもし正しいとしても
その様な低線量域での被爆の危険性は、冷静に判断すれば携帯電話の使用による発癌性と似たり寄ったりの確率で、喫煙による発癌よりも充分に低い事は科学的事実です。

これを社会的損失という概念で考えれば、タバコによる社会的損失は、現在の福島の被爆による損失よりも100倍以上重大であると言えます。

ところが世間では、タバコは嗜好品、放射線は一方的な被害と区別します。
合理的に考えれば、自己責任で癌になるタバコの被害は補償されませんが、放射線による被害は補償されませすから、個人的にはタバコによる害は損失しか生まないのですが、この事を指摘すると「個人の勝手だろう」と逆切れされます。

放射線の被害をことさら強調する人達は、「妊婦や子供を守る」と強調しますが、彼らの価値基準は非常に個人的な利害に立脚しているので、時間が経て、実害が自分達に及ばなければ、放射線に対する興味を失います。(但し、恐怖だけは心の底に残ります。)


今回非常に興味深いのは、アメリカ、フランス、ドイツの人々の方が、放射線に対して徹底的な恐怖を抱いている事です。彼らは個人の対応としては、原発事故直後の日本から逃げ出しました。

しかし一方で社会的には原子力の存在を認めています。(ドイツは別として)。
フランス人は国家のレベルとしては原子力を認めながらも、個人のレベルとしては放射線を恐怖します。これは、個人と社会という尺度が確立しているので起こる現象です。

国家として原子力は不可欠だが、個人としては事故が起きれば自分の安全は最優先するのでうす。これは、狩猟民族的な思考です。集団で獲物を狩るリスクは犯すが、生命の保証は個人で守るしかないという考え方です。

ところが、日本人は土地に縛られた農耕民族ですから、厄災はどこからとも無く訪れて、しばらくして去ってゆくものです。そのリスクは土地が動かないものである以上、回避できるものでは無く、集団が等しくリスクを負う事になります。

社会が進化を遂げ、ムラレベルの集団は国家レベルに成長しましたが、日本人の価値基準は未だにムラを基準にしています。

福島という限定的地域で発生した厄災を、全国民の共通に痛みにしなければ、気がす済まないのです。だから、大した事の無い汚染レベルを測定しては、自分達も等しく危険に曝されている事に、恐怖しながらも、一種の安心を覚えます。

この対応は地震直後の自粛ムードにも明確に現れていました。

本来は震災の影響が無い地域では、消費を推奨して経済を活性化する事が求められえるのですが、全国的自粛ムードで、サービス業を中心に不必要な損失が拡大しました。

この様に「合理的判断」は「裏切り」と断罪される社会においては、原子力や放射線に対する多角的議論は封殺され、「安全」を主張する学者達は、「魔女狩り」さながらの扱いを受けます。

ここには「科学」は存在せず、あるのは「同一の苦しみ」を強要する「ムラ社会の不問律」です。

ですから現在の日本において、「放射線の論争」は成立し得ず、一方的弾劾と言う恐怖のみが支配します。それは、社会や国家には不必要な除染や、不必要な避難という損失を生み出しますが、社会は「皆で苦労する」という安心感を得る為に、その矛盾に目を閉じます。

これこそが、「福島の悲劇」を助長するのではないでしょうか?



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