室町幕府八代将軍義政の頃、茶の品質、等級を表す呼び名、「吉、ヨシ、ヨキ、上、ヒクツ(挽き屑)」などが残されているのが茶銘の始まり?
「山科家礼記」(1491年)に、茶銘として「無上」が記されており、「茶具備討集」(1554年)に、無上は森、祝、宇文字、朝日の四園の茶を称し、それ以外の茶園の茶には無上は付けないとある。
室町後期には、茶の品質、等級の茶銘として、「無上、別儀、ソソリ(揃)、クダケ(砕)、ヒクツ(挽屑)」が一般的になった。
無上(茶会記では濃茶、薄茶用)は、この時代における最高の茶を意味しているが、何故この銘が付けられたのかはっきりしない。
はっきりしないのは別儀(濃茶用)も同じ。
京都の茶好きが、無上ひと袋の中から良質の茶葉だけを細い箸で選り出し茶会をした。
客は村田珠光、松本珠報、志野道耳などだったらしいが、「美味しい」と評判になり、これが別儀になったと伝えられている。 客は武野紹鴎だと伝える本もある。
また、その紹鴎が葉茶を蒸すときに、「そっと蒸して欲しい」と注文したので別儀の銘が付いたとも伝えられている。
天正年間(1573年~92年)には、無上、別儀に変わり、「極無」、今も最高級の濃茶のことを表す「極上」、「極」が茶銘として台頭している。
無上の銘が衰退していくことは、茶業者の栄枯衰勢にも絡んでいる。
室町時代の茶師は幕府の滅亡とともに多くが没落、信長の時代に一番の茶師とされた森家も、秀吉の時代から徳川時代に代わると上林家に押されていく。
江戸時代は、上林家一族が宇治茶の世界を引っ張った。
上林竹庵、上林三入、上林味卜(みぼく)上林六郎、上林又兵衛、上林春松などの茶師が活躍、上林家は宇治郷の代官でもあった。
こうした中で、宇治では「御茶師三仲ケ間(さんなかま)」を組織している。
三仲ケ間とは、禁裏、将軍家に茶を供する「御物(おもの)茶師」、徳川家が寺社に献上する袋茶を詰める「御袋(おふくろ)茶師」、その他の茶を供する「御通(おとおり)茶師」の三段階に分けられた茶師のことで、全部で40軒余の茶師が活躍していたという。()
Peter & Catherine’s Travel Tour No.446
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