すべて物には名前があるように、茶の世界でも菓子には菓子屋が、抹茶には茶師がそれぞれ名前を付けている。
茶の命名は少し意味が異なり、茶師が名付けたものは単に「茶銘」といい、茶師が上得意の僧侶、公家、武家や茶道家に「名を下さい」と付けて貰ったのは「御」の字を付けて、「御銘」となる訳。
お茶席では「御銘」、抹茶を作った茶師・製造家である「お詰元」などの名を訊ねるが、道具立て、菓子の名前や茶の御銘などから、そのお茶会のテーマを連想するのも楽しみのひとつである。
一般的な粉末茶は20ミクロン(μm)で湯を注ぐと混ざるが、抹茶は5μmから10μmの超微粒子なため湯を注ぐとダマになる。茶筅で混ぜるのはこのため。
ちなみに、1μmとは1000分の1mm。
抹茶の喫茶法は、京都の古刹、建仁寺を開山した栄西禅師 が1191年宋より伝えたとされている。
彼は宋に2回渡ったとされているが、2回目の帰朝で九州の平戸に着き、そこで宋の禅院の喫茶法と茶の種を持ち帰り栽培した。
日本では、平安時代中頃から茶の栽培が途絶えていたが、栄西によって茶の栽培が復活したとされている。
彼が伝えたのは抹茶の喫茶法だが、中国では明の時代になって釜炒りの煎茶が主流になり、蒸して作る抹茶などは廃れていったという。
栄西禅師により茶の種を貰ったと伝えられているのが、御鳥羽上皇より京都栂尾山を賜った明恵上人(1173~1232年)で、栂尾で茶の栽培、良質の茶を作ったとされ、この茶園で作られた茶は “ 本茶 ” と呼ばれた。
ちなみに、全国に広まった茶園で取れる茶は “ 非茶 ” と呼ばれ、南北朝時代には産地を当てる飲み比べや金品を賭ける闘茶が流行り、庶民には一服一銭の茶売りが喫茶の裾野をますます広げた。
室町幕府の三代将軍足利義満が、宇治に七箇所の御用茶園を拓いた。
これが、森、祝、宇文字、河下、奥山、朝日、琵琶の茶園で、宇治七園と言われる。
“ 非茶 ” のひとつだった宇治がどうして “ 本茶 ” 栂尾を凌ぎ、日本一の美味しい茶の産地となったのか? それは次回に。()
(これまでに撮った写真から。今回は「紅い花」ですが、“名前” は判りますか?)
Peter & Catherine’s Travel Tour No.444
コーヒーにも紅茶にもそして煎茶にも名前がありますが、古の茶師が自慢の茶に名を貰い御銘となったとは、人との繋がりを大切にした日本人らしく良いお話を有難うございます。
昔、高山寺にやっとの思いでたどりついた時、境内のさらに上の方に茶畑があったのを思い出しました。猫の額ほどの小さな茶畑が斜面の境内のあちこちにありました。標高も高いので寒暖差がお茶をおいしくするのかなと思いながら下山しました。あれが、本茶?
sakura[E:cherryblossom]
高山寺には行ったことがないのですが、国宝「石水院」近く、最古の茶園があると聞いています。
それが、「本茶」の今に残る姿だと思います。
此処には「鳥獣人物戯画」もあるらしいので、機会があればペトロと一度訪ねてみたいと思っています。[E:libra]