前回の、<お待たせ!>の続き。
黒井千次さんの「高く手を振る日」(新潮社)は、5月の大型連休の終わり頃、朝日の文化欄(夕刊)に掲載された著者へのインタビューで知ったが、その月末頃、同じく朝日の書評欄にも採り上げられた。
主人公は、古希も半ばの男。妻に先立たれ、未来のない行き止まり感に苛まれている。
偶然にも、娘から夫の同僚の母親が、亡妻の友人でもあり大学時代に同じゼミだった女性であることを教えられる。
ふたりは、葉書の交換、消息を尋ね合う電話と進み、やがて、再会を果たす。
ときめきや不安に心乱され、ときに衝動的にもなりながら、ふたりは再び近づいていく――、ざっと、このように話は進む。
黒井さんの作品は、昔、「群棲」や「黄金の樹」などを読んだことがある。
その頃の著者は、戦後というひとつの時代の青春の輝きと翳りを、精緻な文章で著していたように覚えている。
この「高く手を――」を、どのように読むかは、当然にして区々だろう。
何時ものとおり、「先に読むんだからね」とカタリナ。
読後、「経済的に恵まれた男の視線で書かれた恋愛小説、詰まらない」と手厳しい。
インタビューで黒井さんは、「老人問題を描こう(ママ)とした訳ではなく、書き手の加齢とともに小説の登場人物が年を取っただけ。作風として自分が抱えている問題や足場と向き合うことしかできないのです。」と答えていて、カタリナ評と重なる部分もある。
ペトロ は、「かつての上司の斑ボケを、『行き止まりから引き返そうとする人の姿であるとしたら、行き止まりにそのまま身を沈めた方が――。』と揺れる心情」を、「ひとりで老いることへの誰しもが抱く怯え。」と、勝手読み。
著者の、「テーマは老人問題ではない」ならば、カタリナ評が妥当とも思う。
とまれ、嫌がうえにも老いと向き合わなければならない。
本のようなめくるめく場面を、この先神様が恵んで下さろう筈もないが、仮にあげると言われても、「カタリナよりも長らえたくはない・・・」と、この本を読んで率直に思う。
お奨めマーク、「★★★☆☆」を、こと本に関して厳しい彼女、「甘いね!」と鼻で嗤う。
ところで写真の花、カタリナがお茶の仲間から貰った、「崑崙花」(こんろんか)。
調べてみると、花と見紛うような白い葉を、中国の崑崙山に積もる雪に見立たとある。
それに白い葉、やはり花の一部なのだそうだ。