goo blog サービス終了のお知らせ 

ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

サン・マルコ修道院 ‐ フィレンツェ

2011年02月15日 | イタリア

 サン・ロレンツォ教会から、メディチ家の邸宅でもあったリッカルディ宮殿の前を通り、サン・マルコ修道院に向かった。
 この修道院、今は美術館となっていてサン・マルコ美術館とも、アンジェリコ美術館とも呼ばれる。

2_21_2  ここはかつて、サン・マルコ信心会の礼拝堂だったそうだが、15世紀になってローマ教皇の命により、ドメニコ派の修道院になったと言われている。

 サン・マルコ修道院(写真上左) が、歴史にその名を留めているのは、ここを拠点に活躍したふたりの僧がいたればこそ。

 そのふたりとは、“ 天使のような ” と呼ばれた画僧フラ・アンジェリコと、後にフィレンツェの実権を掌握するジロラモ・サヴォナローラ。

 ちなみに、サヴォナローラはフェラーラで生まれ、ドメニコ会修道士として禁欲的生活を説き、「虚栄の焼却」を行うなど終生ローマ批判の舌鋒止まず、後には処刑された。

Photo_8  修道院の2階へと続く階段の途中に踊場があって、そこから右に曲がっている。
 その踊場から見上げると、正面の壁に大きな画が架かっていて嫌でも目に入る。

 フラ・アンジェリコ描くところの、「<受胎告知>」である。                                                                         

 と、いう訳でこの絵は、少し見上げる視点(写真上右)で架かっている。
 ゆっくりと階段を登りながら近づいていった時に、最も美しい印象を与えるという、心憎いばかりの演出である。

 大天使ガブリエルが、“ おめでとう、恵まれたかた、主があなたと共におられる ”ルカ1章26~38:新共同訳)とマリアに告げた場面(写真中)が描かれている。

2  カタリナ は、「聖らかな女性像、無原罪の女性とはこの方」と納得。

 また、ここには、若き日のミケランジェロが師事した画家ギルランダイオの「最後の晩餐」(写真下)がある。

 この絵はダ・ヴィンチが、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描いた、「最後の晩餐」の参考にしたとされていて、「なるほど!」と思わせた。

 廊下を進むと小さな僧房、祈りの空間が数多く並び、それぞれに絵が架かっている。

 とまれこの修道院、神への祈りに生きた名もなき修道士の声が、今も「空間に漂っている」ようにも思え、同時に、「フラ・アンジェリコの優しい作風に酔ったひと時」でありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サン・ロレンツォ教会 ‐ フィレンツェ

2011年02月13日 | イタリア

 次に向かったのは、メディチ家礼拝堂から地続きのサン・ロレンツォ教会。

1_22_2 この教会は、ミケランジェロが天国の門と讃えたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東の扉のコンペで、ギルベルティに一敗地に塗(まみ)れたものの、後に、ドゥオモのクーポラの工事で見事にリベンジ、その名を馳せたブルネッレスキが増改築したものと言われている。

 ローマ教皇レオⅩ世は、ミケランジェロにファサードの設計を委ねたが、ブルネッレスキの死によって工事が中断、ファサードは未完のままとなっている。

 この教会は、ミラノ司教として4世紀に活躍した聖アンブロージョによって祝聖されたという来歴を持つ相当に古い教会で、Photoその雰囲気は、中庭を囲む回廊(写真上左)にも見て取れる。

 今となっては、未完のままのファサードや粗さを残したままの外壁(写真上左)などが、この教会を一層味わい深く、風格を感じさせるように思えるから面白い。

 この教会の特徴はもうひとつ、天井が床面と平行であること。
 ロマネスク様式にしても、ゴチック様式にしても天井は丸い形状になっていて、これを穹窿(きゅうりゅう)、ヴォールトと称するのだそうだが、そのヴォールトで支えられているのだそうだ。

 ここでは、水平な格天井が真直ぐに主祭壇(写真中)に伸びている。

 そして、その格天井にはメディチ家の紋章、「てんとう虫かな?」「丸薬でしょ!」のエンブレムが描かれている。

 説教壇は、ドゥオモ博物館に展示されているマグダラのマリア像の作者ドナテッロの手になるものだそうだ。

Photo_5  ところで、街中にいた多くの観光客(写真下)は、「一体、何処に行ったの?だろうか。
 先のメディチ家礼拝堂にしても、このサン・ロレンツォ教会にしても、「寂しいほど人影が少ない」のである。

 その疑問は、次のサン・マルコ寺院とアカデミア美術館で解けた。
 ルネッサンスの巨人ミケランジェロは、アカデミア美術館の方で多くのギャラリーを引き連れているようだ。
 余談だが、当時はそんな有様だったが、今はこの教会、メディチ家礼拝堂とともに長蛇の列と聞く。

 そんなことを思いながら、メディチ家礼拝堂とサン・ロレンツォ教会を後に、次の目的地へと向かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディチ家礼拝堂 ‐ フィレンツェ

2011年02月11日 | イタリア

 99年、初めてこの街を訪れた時のこと。
 その日、花の街フィレンツェは、初秋の爽やかな光の中にあった。

  まずは、ノヴェッラ駅の近くウニタ・イタリア広場から10分ほど、サン・ロレンツォ教会の裏手、メディチ家礼拝堂(写真上)から、中世の面影を色濃く残す旧市街を歩いてみた。

 Photo_2礼拝堂の入口には既に何人かが並んでいたが、待つこともなくチケットを買うことができた。
 この建物の2階に、メディチ家の歴代君主の礼拝堂がある。

 さらに、廊下を進むと、ルネッサンスの三大巨人のひとり、ミケランジェロ・ブオナローティが設計した新聖具室がある。

 ところで、この街は、メディチ家を抜きにして語れない。
 メディチ家の紋章は丸薬を模したものだが、その紋様から先祖は薬屋か医師であったのではないか、とされているらしい。

 その後、金貸しとして財を成し政冶にも手を広げたという。
 やがて、この街の実質的な支配者として君臨、後に、トスカーナ大公国の君主にまで登りつめた一族である。

 Photo_3話は戻って、新聖具室にはそのメディチ家のロレンツォ2世とジュリアーノの墓があり、ミケランジェロの傑作、「寓意像」がある。

 1520年、ミケランジェロが、メディチ家出身の教皇・レオⅩ世の依頼を受け制作をしたといわれている。

 夭折したふたりの若者に、ミケランジェロは、“ 一日の時間が早く巡って人生を短くしてしまった ” と、ソネット・詩を書いてこの擬人像を彫ったとされている。

 ジュリアーノの肖像(写真中)の下には、「昼=男性像 と 夜=女性像」が、ロレンツォ2世の肖像(写真下)の下には、「曙=女性像 と 夕暮=男性像」が配置されている。

 ひっそりと息づくこの四体の像は、“人生の始まりと老い ” を表現しているのだそうだ。

 像をとっくりと眺めていると、この作品のテーマを考える前に、構想の壮大さと横たわる像の力強さ、そして何よりも「そのマッチョ振り?に圧倒されてしまったのだが、「傑作のどこを見てるの?」と笑われてしまった。

 まずは、花の街で最初に目撃したルネッサンス芸術の傑作、それは、巨人・ミケランジェロの圧倒する擬人像でありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花の街 ‐ フィレンツェ

2011年02月07日 | イタリア

 花の街とも呼ばれるフィレンツェ。
 ペトロ カタリナ が、初めて訪れたのは99年の夏も遅い頃。

 それから3年後の02年、待降節にドイツを訪ねた帰り道、ミュンヘンから空路フィレンツェに入り、工事などで見ることが叶わなかったドウオモ博物館、マザッチョの「<聖三位一体>」(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会)や「<楽園追放>」(カルミネ教会・ブランカッチ礼拝堂)などを見て歩いた。

  天井のない美術館とも言われるこの街を初めて訪れた折の、瑞々しいまでの驚きと感動を、例によって、99年と02年を行きつ戻りつしながら綴ってみたい。

 Photoまずはノヴェッラ駅の近く、ウニタ・イタリア広場の一角に建つホテル・マジェスティクの朝から、この旅は始まる。

 ちなみに、このウニタ・イタリア広場、当時、ミラノからローマまで走るJALバスの発着所になっていて、ホテルもI’LLなどJALのパッケージツアーの指定ホテルになっていたようだ。

 昨日、学んだことを早速とばかりに、早めに食堂に行く。
 というのは、前日の朝のこと、その日は地中海の港町ピサに遠足する予定で、時間に余裕があり遅めに食堂に行った。

 ところが、宿泊客が一斉に朝食を摂ろうとしたらしく、これはもうどうしょうもない有様、呆然とその様を見遣った。
 出直しても「変わらないよ」と思うものの、一旦、部屋に戻って出直したのだった。

 2それで、今朝は早めにという訳だが、今度は早過ぎてか殆ど用意されていない。
 定まった時間の筈なんだが、「これがイタリア時間?と首を傾げるペトロを「朝食に弱いんだから」と揶揄する。

 このホテル、朝食が余り良くなかったことをテーブルについて思い出した。
 相も変わらず人手も足りないようで、駅に近いこともあって99年に続いてこのホテルをリピートしたのだが、少し遣る方無い思いも残る。

 そそくさと朝食を終え、ホテル近くのスタンドで朝日新聞を買ってのんびりと部屋で読んでいたら、いたくご機嫌斜めのご様子。

 恐る恐る「どないされましたんや、 一体?と伺うと、ウフィツィ美術館が開くのが9時。「早く行かないと混雑するでしょ! のんびり新聞なぞ」と、言うことらしい。
 それは「ご尤も」と、急いで身支度をしたのは言うまでもない。

 02年のナターレ・待降節の最終週に入ったフィレンツェ、前日のピサに続いてこの日も、素晴らしい天気になる予感がした。

 写真は、ミケランジェロ広場からの旧市街とウニタ・イタリア広場からのホテルだが、当時の写真は銀鉛フィルムが多く、余り綺麗じゃないがご容赦を。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想の女性?

2010年05月05日 | イタリア

 花の都、フィレンツェ。
 ルネッサンスの花が開いたのもこの街、天井のない美術館とも言われている。

 当時、この街の絶対的権力者だったのがメディチ家。

 そ1_5Photo_7の、メディチ家ゆかりのウフィツィ美術館の主役となれば、ルネッサンスの巨人ダ・ヴィンチの 「受胎告知」とメディチ家の庇護を受けた、初期ルネサンス、フィレンツェ派の画家ボッティチェリの 「」と 「ヴィーナスの誕生」。

 話は少しそれる。
 15世紀初頭、僅か28歳で天に召されたマザッチョ。
 彼の出現によって、教会からの束縛から解放され、溌剌と自由に自己を表現するための芸術運動、ルネッサンス・文芸復興の花が、奇跡のように開いたとされる。

 彼Photo_8に続くフィリッポ・リッピからさらに、息子フィリピーノや弟子のボッティチェリへと続くのだが、この頃から対象を自由に解釈した等身大の宗教画が描かれ始め、やがて、教会のためだけではなく、貴族や豊かな商人などの求めに応じて肖像画を描くようになった。

 以来、画家たちにとって《理想の女性像》は永遠のテーマ?なのだ。

 話は戻って、あまたある名画の中で《理想の女性像》となれば、誰?

 ペトロ 至って大真面目に 「モナ・リザは少し趣が違うなあ」と思案投げ首。
 然らば、ラファエロの ヴェールを被る婦人の肖像」(パラティーナ美術館)のラ・ヴェラータ(写真上左)か、盛期ルネサンス・ヴェネツィア派のティツィアーノ描くところの 「聖愛と俗愛」<ボルゲーゼ美術館蔵>の世俗のヴィーナス(写真上右)でどうかと、無邪気なもの。

 そこで、今日のテーマだが、<ランクフルト>の<シュテーデル美術館>に、臆面もなくこれぞ理想の女性と言って憚らない一枚がある。

 1_62ボッティチェリの、そのものずばり 「理想の女性像」、別名 「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」(写真中上)だ。

 彼の 「」の世俗のヴィーナス(写真中下左)、「ヴィーナスの誕生」の天上のヴィーナス(写真中下右)、「ヴィーナスとマルス」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)の女神ヴィーナス(写真下右)。

 これらの女性像、篤とごろうじあれ、みんな、同じ顔に見える?
 2_512_3また、不思議にもヴィーナス、世俗が着衣で天上(聖愛)は裸体とは如何に?と思うが、こういうことになっているらしい?

 もとよりカタリナ、ボッティチェリへの関心も低く 「理想の女性像」の前を素通り。
 ペトロはただ単純に 「マニフィカトの聖母」の聖マリア、(写真下左)確かに美しいと思うのだが・・・。

 大型連休、小ブログも休もうかとも思ったが、毎日が日曜の身に連休もないだろうと、前号 「二文字押切灰」(カタリナ投稿)に次いで小編をアップ。

 それに、随分と長くなってしまったけれど、なんせ《理想の女性像》がテーマなもんやからご勘弁を。(所蔵美術館の記載がない絵は、すべてウフィツィ美術館蔵です。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディアナとニンフたち

2010年03月19日 | イタリア

 レンブラント・ファン・レイン。
 この17世紀オランダが生んだ不世出の天才画家、光と影の魔術師が紡ぎだす魂と技法、かつて<レイクスミュージアム>と<マウリッツハイス>で満喫した。

 ところで、今回の主役はそのレンブラントではなく、勿論、ヨハネス・フェルメール。

 Photo彼は、画家中心のギルドである聖ルカ組合の理事に選ばれたことからも、生前は高い評価を得ていたようだ。

 43歳で世を去ったとされているが、その生涯がはっきりとしていないことは、<フェルメール>でも書いた。

 生涯に僅か三十数点しか残さなかった彼、この美術館に三点ある。
 そのひとつが、現存する唯一の神話、狩猟と月の女神ディアナをモチーフにした 「ディアナとニンフたち」(上)だ。

 頭に月の飾りをつけたディアナは、狩を終え休息している。
 そこへ、狩に出た若き王子アクタイオンが通りかかり、偶然に沐浴をしているデイアナを見つけてしまう。

 森の妖精・ニンフたちは、デイアナの裸体を隠そうとするのだが、はからずも覗いてしまった彼の運命やいかに、という場面を描いている。

 Photo_7この後、女神はアクタイオンに水をかけ牡鹿に変えてしまう。
 そして、哀れにも彼自身が連れてきた猟犬に噛みつかれ死んでしまうのである。

 フェルメールは、ディアナの傍らに男らしさの象徴である薊の花を描き、アクタイオンが間もなくここに来るであろうことを示唆している。

 この絵は、古代ローマの詩人オウィディウスの 「変身物語」にその画題を得たとか。
 
物語は、登場人物が動物や植物など、様々なものに変身する15のエピソードから構成されているのだそうだ。

 そう言えば、カラヴァッジョとベルニーニを訪ねる旅の最終日、ローマのバルベニーニ宮の国立古典絵画館で、カラヴァッジョの 「ナルキッソス」(下)を見たが、この絵のテーマも、やがて水仙になるナルキッソス木霊変るエコーなどの変身物語なのだ

 余談だが、<悔悛するマグダラのマリア>(210/01/29)で中断しているカラヴァッジョとベルニーニの旅、また何時の日か再開したいと思っている。
 フェルメールの残るふたつの絵次回に。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンピドーリオの丘

2010年01月24日 | イタリア

 パンフィーリ美術館が開くまで時間があり、先にカンピドーリオの丘に向かった。
 
イタリアを統一したエマヌエーレ2世記念堂の横手の坂道を上ると、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会の素朴なファサードが見える。

 Photo会の歴史は古く、キリスト以前、カエサルの遺志を受継ぎローマ帝国の礎を築いた初代皇帝アウグストゥスの時代に遡る。

 彼はある日のこと、ここで幼子を抱く聖母を見、さらにキリスト到来の予告と、ここにやがて神の子の祭壇、アラ・チェリが建つという巫女のお告げを聞いたとされ、7世紀には既にここにあったという。

 カタリナ が、「何段あるの!」と、怯むのもさもあらんと思うほど高い教会への階段を見上げ溜息。

 そういえば、大方の人が隣のカンピドーリオ広場(写真上)へと続く緩い坂道へと回っている。

 Photo_2ミケランジェロが設計した広場を挟んで左右に建つのが、ローマを育てた狼の像、「カピトリーノの雌狼」がある世界最古のカピトリーニ美術館。

 ここの絵画館にも、カラヴァッジョの作品が数点展示されているが、それはまたの機会に。

 広場の突き当たりが市庁舎・タブラリウム。
 
その右手の階段はフォロ・ロマーノへと続き(写真中)、左手の階段を上ればアラチェリ教会の右側廊の扉だ。
 
教会の礼拝堂に、イタリア・ルネッサンスの画家ピントゥリッキオの代表作、「聖ベルナルドの生涯」がある。

 ところで、この教会で有名なのは、主祭壇の左手奥の礼拝堂。

 Photo_3奇跡を起こす力があると信じられる聖幼な子の像(写真下)があり、今も世界中から奇跡を願う手紙が届くとかで、籠にどっさりと入っていた。

 教会の影響を強く受けた中世宗教絵画、押なべて幼少期のキリストの顔を聖人に描き、幼子の愛らしさに欠ける。

 イエスが捕らえられたゲッセマネの園のオリーブで作られたという、身の丈1mにも満たないこの像も例外ではなく、ましてや三頭身に冠を戴き、真っ直ぐに見据える様はお世辞にも好きになれない。

 と言えば、霊験あらたかならざるも当然?我が身に奇跡なんて起ころう筈もなく、宝くじ1等なんて、夢のまた夢か。(パンフィーリ美術館に続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ア・リーパ教会

2010年01月18日 | イタリア

 小雨が似合う、素朴な佇まいのサン・フランチェスコ・ア・リーパ教会。
 小さな内陣では、朝の礼拝の後なのか何人かの信者が静かに祈ってい、邪魔をしないように、主祭壇の左、小さな礼拝堂に足を運んだ。

 この淋しい雰囲気の教会が旅の案内書に載るのは、この礼拝堂に、初期バロック彫刻を代表する巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの最晩年の傑作 「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」があるから。

 Photo_2ある罪で告発された弟ルイージの恩赦を得るために、教皇一族のために数多くの作品を手がけたベルニーニが、パルッツォ・アルベルトーニ枢機卿の依頼に応え無償で制作したとされているのがこの作品。

 死の淵で苦しみながらも神とともになるルイーザ、別名ルドヴィカを主題とする本作、右手を右の乳房に、左手をその下に添えて苦しみ悶えるその姿は、見るものを驚かせずにはいないだろう。

 枕やベール、そして、聖服の襞の細やかな表現。
 
何よりも、顎を心もち反らせ小さく唇を開き、今だ捨て切れぬ己が業に苦悶するかのような表情に、一途に神を敬う優美な官能、甘美が見て取れる。

 Photo_3Photo_4老いてなお増す神秘性への傾倒と理想とする女性美の追求に、ベルニーニの凄さを感じさせる。

 彼女は、裕福な一族に生まれながらも、貧者への施しと献身的な神への奉仕のため、健康を損ね天に召されたという。

 この作品、神のもとに召される喜悦と解釈するのが正しいのだろうが、天才ベルニーニ、80歳にならんとする老芸術家の瑞々しい感性に 「恐れ入りやした」と、ローマの下町の素朴な教会と別れた。

 そぼ降る雨が、教会前、サン・フランチェスコ・ディ・アッシジ広場のオベリスクを濡らしていた。
 
その教会と広場、アッシジの聖フランチェスコがヴァチカンを訪れた際に、教会に隣接する巡礼者宿泊所に投宿していたことに由来するという。

 もし、ローマはトラステヴェレへ行かれたら、この小さな教会を覗いてみて下さい、ルイーザがあなたを優しく迎えてくれるでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トラステヴェレ

2010年01月17日 | イタリア

 映画、<「天使と悪魔」>をきっかけに始めたバロックの旗手を訪ねる旅。
 ほぼ半ばまできたが、そろそろ別の画家などとの出会いも紹介したくなった。

 それで勝手ながら、「悔悛するマグダラのマリア」と「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」、この対照的な作品で、暫くこの旅から離れることにした。

 初日をヴァチカン博物館で過ごした翌日、トラステヴェレへ向かった。

 Photo_2この日、ファルネジーナ荘のラファエッロ、その向かいのコルシーニ宮のカラヴァッジョを訪ねる予定だが、TVがローマに雲のマークを貼り付けてい、雨になるかも知れない。

 トラステヴェレでは、ア・リーパ教会へもとカタリナ、老彫刻家が魅惑的な聖女を刻んだと言う。

 テヴェレの向こうという意味のローマの下町トラステヴェレ、夜や日曜に賑わう町と聞くが、これまで訪れたことがなかった。

 テルミニ駅前(写真上)からH番サン・カミッロ病院行きの急行バスに乗ったものの、降りるべき停留所に自信がない。川を渡った辺りで降りればいいやと腹を括った。

 フォロ・トライアーノの石畳の坂道を下ると見慣れたヴェネツィア広場。
 ジェズ教会の辺りを左に曲がり、ガリバルディ橋を渡るとトラステヴェレだ。

 Photo_2話はそれるが、イエズス修道会の威光を今に示すジェズ教会、左側廊のロヨラと右側廊のザビエルのふたつの礼拝堂を併せ、三つの主祭壇を持つといえば特異な解釈か。

 話を戻して、生憎のことに、この辺りから車窓をぽつぽつと雨が打つ。
 テヴェレ川を越えた最初の停留所、多分ソンニーノ広場でバスを捨てた。
 
バス停付近のお巡りさんの早口のデーストラ(右)やシニーストラ(左)に苦労しながらも、大方の方向が分かった。

 途中、厄介なことにまた分らなくなり、建物の庇の下にいたおじさんに、「スクージー?」と声をかけた。
 
失礼にも携帯電話の最中だったのだが、電話の相手に「ジャポネーゼ」と言いながら、雨もものかわ四つ辻まで足を運び親切に教えてくれた。

 彼が指差す先に、サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会(写真下)のファサードが見えた。(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ローマへ

2010年01月10日 | イタリア

 フランスのアンジュー家とスペインのアラゴン家、ナポリを中心とする南イタリアの覇権を争う宿敵同士だったとか。
 
その歴史が刻まれているというヌオーヴォ城から、バスで中央駅(写真上)に戻った。

 降りる直前、むくつけき男数名がどやどやとバスに乗り込み「チケットを見せろ」という。
 カンパーニャ・アルテカードを見せると「うん、うん!」と満足げに頷きカードを返す。「へぇ、これからローマに戻ろうという時にねえ」とカタリナと顔を見合わせた。

 Photo_5ガリバルディ広場の北側、ホテルと同名のレストランでランチ、これが廉くて滅法美味い。
 
給仕する蝶ネクタイのおじさん、ランチタイムが過ぎて暇なのか、片言の日本語で話しかけてくるのが楽しく時間が経つのが早い。

 列車の時間が近くなったので、ホテルに預けておいた荷物を受け取り、中央駅に向かった。16番線にエウロスター、ES(写真下)は既に入っていた。

 ところが、定刻が過ぎても発車する気配がなく、10分、20分と過ぎる。
 
半時間ほども待っただろうか、車内アナウンスが流れ乗り合わせた客が一斉に降り始め、通りかかった車掌は、「13番線の列車に乗り換えてくれ」と言っているらしい。

 Photo_6終着駅のため乗客は急ぎ足で駅舎の方に戻っているが、先頭車両近くの私達と年寄り数名に、時間がないから先頭車両の前を横切れと随分なことを言う。

 線路を横切る私達を、13番線の駅員が「早ようしなあれ!」と言ったかどうかは判らないが矢鱈急かす。

 腰を落ち着けるのを見透かしたかのようにホームを離れたES、遅れを取り戻そうとイタリア国鉄にしては真面目?に走る。
 
結局、予定より30分余り遅れて、ローマ・テルミニ駅に滑り込んだ。

 それにしても、天候に恵まれたナポリだった。
 
トリノやミラノなど勤勉な北部からみれば、南部代表のナポリは、マンジャーレ、カンターレ、アモーレ、食って飲んで歌って恋してと、日毎夜毎遊び暮らすかのようにみえるらしい。
 
この小さな旅、カンターレもアモーレもなかったが、人情の機微に触れた旅でもあった。

 三日振りのローマ、余りご機嫌がよろしくないようで、どんよりと空気が重い。(トラステヴェレに続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする