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ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ルノワール 「舟遊びをする人々の昼食」

2016年12月11日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(13) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(13)

 フリップスコレクション、なぜか、最終回はこの作品でなければ、と思っていた。
 旅の案内書 「地球の歩き方」に “ 必見、しっかり見ておきたい ” とあって刷り込まれていたのかも。

 その作品とは、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の 「舟遊びをする人々の昼食」。

 主題は、<イル・ド・フランス>のシャトゥー島、ラ・グルヌイエールにあるレストランのテラスで、舟遊びに興じる人々の昼食の場面。

 余談だがラ・グルヌイエール、パリに程近いセーヌ河畔の新興行楽地、水上カフェがある水浴場だったとか。

 69年の夏に友人である<モネ>(1840-1926)と同地で画架を並べ描いた 「<ラ・グルヌイエールにて>」(ストックホルム国立美術館蔵)が知られている。

 本作、彼には珍しく、傑作 「<ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場>」(オルセー美術館蔵)と同様に、画家の友人・知人らの姿を集団的に描いている。

 夏の昼下がり、葦の合間からヨットが望める陽光溢れるテラスで楽しそうに語らう様子を、彼独特の豊潤な色彩で解放的に描いている。
 それとは対照的に、ワインと果物、皿やグラスやナプキンなどが置かれたテーブルを中心に配することによって、作品に奥行を与えている。

 ということで小編、フリップスコレクションと別れ、DC・ユニオン駅からアムトラック・アセラでNY・ペン駅とへ向かう。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1227

コメント (3)
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マティス 「エジプトのカーテンがある室内」

2016年12月07日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(12) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(12)

 フリップスコレクション、かの<ゲルニカ>を描いた<ピカソ>(1881-1973/スペイン)の 「青い部屋」、ブラック(1882-1963/フランス)の 「丸いテーブル」なども所蔵しているが、このキュビズムをはじめとする20世紀芸術というスタイル、僕(やつがれ)には聊か手に余る。

 とはいえ<ゴッホ>(1853-1890)や<ゴーギャン>( 1848-1903)など、後期印象派の影響を受けたとされるアンリ・マティス(1869-1954/フランス/フォーヴィスム・野獣派)は、是非とも取り上げておきたい。

 で、自然をこよなく愛し、緑あふれる世界を描き続け、色彩の魔術師とも謳われたそのマティスの 「エジプトのカーテンがある室内」(1948年)が今回の作品。

 ところで、マティス自身は、フォーヴィスムと呼ばれ見なされることをひどく嫌い、その活動は1905年からの3年ほどの間だけだったとされているようだ。

 それ以降は、比較的静かで心地の良い作品を描くようになったとされるマティス、線の単純化、色彩の純化を追求した結果 「切り絵」に到達したとも言われている。

 作品に戻ろう、御年79歳の手になる本作、大胆な構図と色使い、取り分け黒のカーテンのデザインは、6年後に死を迎えるまで、“ 彼の心を占めた切り絵の源のひとつだった ” とされているのだそうだ。

 椰子の枝を越して差し込む陽光、窓際の小卓の白い皿に盛られた黄色い果物、画面の三分の一を占めるエキゾチックなカーテン、純化された色彩から南仏の明るさが画面一杯に広がり、見る者までも明るくさせる、そんな、作品だと思いませんか?
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1225

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クレー 「Arab Song ‐ アラブの歌」

2016年12月03日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(11) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(11

 フリップスコレクション、パウル・クレー(1879-1940/スイス)の作品群、それも十数点の収蔵を誇る。

 ベルン近く、ミュンヘンブフゼーで、ドイツ系スイス人の音楽教師の家に生まれたクレー、自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置いたとされている。

 音楽のほか文学にも優れた才能を持っていたが、迷った末に絵の道を選んだという。

 20世紀初頭、ドイツにおいて生まれた芸術運動である表現主義を標榜するグループ 「青騎士」を、ロシア出身の画家<カンディンスキー>(1866-1944)らと結成するものの、その作風はそれら表現主義、超現実主義などの何れにも属さないものだったという。

 <クレー>、「クレーの旅」(新藤信著/平凡社刊)に、“ 1914年の春、友人の画家ふたりと連れ立って南仏の港町マルセイユを出航、目的地はチュニジアだった ” とある。
 そして、北アフリカの大地に立って数多くの傑作を描いたという。

 その彼の 「Arab Song  ‐  アラブの歌」が今回の作品。

 本作、オーケストラのメンバーであったクレーが、ふと小耳に挟んだアラビアのメロディーから触発を受けたとされている。

 イスラム圏の女性が被るヴェール、ブルカを被ったアラブ女性を描いた本作、淡い色彩とも相俟って何ともチャーミングで微笑ましい。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1223

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セザンヌ 「松の大木があるサント=ヴィクトワール山」

2016年11月28日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(10) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(10)

 近代絵画の父と呼ばれたポール・セザンヌ(1839-1906/フランス/後期印象派)。

 南仏の小さな町エクス=アン=プロヴァンスで絵の勉強を続けていた<セザンヌ>。
 60年頃、友人エミール・ゾラ(1840-1902/小説家)を追って念願のパリに出たものの、大都会の雰囲気に馴染めず、エクスとパリを往復し乍ら制作を続けたが、作品はほとんど理解されなかったという。

 結婚、息子の誕生、確執のあった父の死などもあって、80年頃にエクスに戻ったとされている。

 そのセザンヌが、ヴィクトワール山を生家ジャ・ド・ブーファン近郊から描いた 「松の大木があるサント=ヴィクトワール山」(1886-87年/79.4 x 92.4 cm)が今回の作品。

 本作、彼のもうひとつの 「<サント=ヴィクトワール山と大きな松の木>」(1885-87年/66.8×92.3cm/コートールドコレクション蔵)と、ほぼ同じ視点で描かれている。
 その違いを例えれば、フリップス版が広角、コートールド版が望遠レンズで切り取られたと言えば大雑把か?

 青みがかった稜線のヴィクトワール山を背景に、アルク川の堰堤が吐き出す豊かな水に恵まれた田園風景が広がっている。
 前景には、枝葉が覆う松の木が配され、恰も画布に見立てたような引き締まった印象を与えている。

 このモチーフで水彩・油彩など何枚か描いてい、セザンヌの故郷に寄せる深い愛情が見て取れる。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1220

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ゴッホ 「オーヴェルの家」

2016年11月25日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(9) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(9)

 売れたのは僅か1点のみ、生前は全く作品が売れなかったという。
 ものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとしてもてはやされる悲運の画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/ 後期印象派)。

 その彼の最晩年の作とされる 「オーヴェルの家」(1890年)が今回の作品。

 本作は<耳切り事件>の後、精神的に不安定となったゴッホが、90年5月20日、パリ北西<イル=ド=フランス>の<オーヴェル=シュル=オワーズ>に移住。

 友人である精神科医のポール・ガシェのもとで治療、療養生活を過ごした最後の二月間で手がけられた八十点余りの作品の中の一点とされている。

 本作、上景に大きな樹の傍らに白い塀を巡らした青い屋根の家が見えるものの、穂が黄ばみ始めた麦畑が画面のほぼすべてを占めている。

 そのモチーフから描いたのは、博士のもとで治療を受始めた、それも早い時期と思われ、画面からは不安と苦痛に満ちた心理が見て取れ、病状が優れなかったことが窺える。

 その後、傑作のひとつ 「<オーヴェルの教会>」(オルセー美術館蔵)や 「<ポール・ガシェ医師の肖像>」(個人蔵)などを描き、同年7月27日、ピストルを胸に当て引き金を引いた、37歳だった。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1218

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ゴッホ余話 ‐ ちょっとミステリアスな絵

2016年11月21日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(8) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(8)

 この小さなギャラリーの作品を拾うだけで四苦八苦、メトロポリタン美術館なんて所詮無理、なんて今、ちょっぴり後悔しているところ。
 そんな弱気の虫は、防虫剤と一緒に箪笥に仕舞って、ここでちょっと横道に。

 幾ら能天気なペトロ とて、旅の前にはある程度の知識は仕入れている。

 それは、旅本の地球の歩き方や美術案内書だったりHPだったりだが、この旅も旅程表とともに作品リストを作って鞄に入れてきた。

 そのリストの作成途中、「えっ、ほんま?」と思う面白いブログ 「White & black」(10-09-28)に当り、機会があれば紹介したいとファイルに保存していた。

 その作品が、ゴッホが共同生活の家を飾るために描いたとされる 「アルルの公園の入口」(1888年/上)、勿論、ここフィリップスコレクションが収蔵している。

 主題はいたって簡単、公園の入口の景色だが、この作品には、偶然なのか画家の仕掛けなのか、公園に入って突き当りの小道が別れる辺り、仰向けの顔が描かれている・・・と、言うのである。

 半信半疑、投稿氏が説明するように、その部分を切り取って(中)、さらに左に90度回転して(下)、目を細めて眺めたらなるほど横顔が浮かんでくるからびっくり。

 投稿氏は、次のように解いている。
 目は、紺色の服を着た道の真ん中の女性、瞳は、その上着の濃紺の部分
 鼻は、その女性の頭部辺りから左下に伸びた細長い柵に沿って
 そして、鼻の穴がその少し下の黒い服
 口は、その下でベンチに座った黒服の人の膝下から靴先
 髪は、右上の黒い服を着てベンチに座った黒い服の二人
 ・・・だと。

 序に加えるなら、口の下の無人のベンチが顎と首、髪の下辺りには耳が、また、上部の茶の塀とその後ろの木が帽子に見えなくもないのである。

 早描きゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)、だまし絵を描いたとは到底思えない。
 が、僅か二カ月で破綻した共同生活、その後の耳切り事件、銃による自殺へと続く予兆と考えれば、俄然この絵がミステリアスになるから不思議ですよね。 
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1216

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ゴッホ 「道路工夫」

2016年11月17日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(7) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(7)

 炎の画家とも呼ばれるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890/オランダ/後期印象派)。
 フィリップスコレクション、その彼の油彩 「道路工夫」 「アルルの公園の入口」、そして 「オーヴェルの家」を所蔵している。

 その彼の最も名が知れた作品のひとつが 「<ひまわり>」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵、他10点)。

 南仏アルルで共同生活するため、唯一人、応じてくれたゴーギャン(1848-1903)の寝室を飾るために描いたとされている。

 その共同生活も僅か二月で破綻、<耳切事件>の後、精神の著しい変調によってアルルの市立病院へ二度入院。
 そこを退院した翌年、ゴッホ自身の希望により<サン・レミ>のカトリック精神病院に入院する。

 その病院の前の道路工事を描いた 「道路工夫」(1889年)、コレクション創設者のダンカン・フリップスが 「ゴッホの中でもベストな作品」と自賛したとか。

 季節は秋、プラタナスだろうか、黄葉した街路樹を彼独特の筆の運びと色使いで力強く表現してい、精神的な危機から脱出したかのようにも見受けられる。

 ゴッホ、サン・レミの病室から眺めた夜空の星を主題に傑作 「星月夜 ‐ 糸杉と村」(1889年)も描いている。
 その作品、NY近代美術館・MoMA編で取り上げたい・・・と、思っているのだが、さて、どうなりますか。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1214

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ドガ 「稽古する踊り子」

2016年11月13日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(6) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(6)

 競馬、舞台、踊り子など都会的なものから日常生活に見られる風俗的なモチーフまで、数多く描いたエドガー・ドガ(1834-1917/フランス/印象派)。

 その彼の 「稽古する踊り子」(1900年)が今回の作品。

 ドガの作品には、踊り子や<浴女>などを題材にした室内風景を描いたものが多い。
 野外の風景を描いたものは競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、彼の関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間であったとか。 

 それには、彼が普仏戦争に従軍した際に、寒さで目をやられたために外出がままならなかったことも関係しているとされる。

 また、裕福な家庭に生まれた彼はバレエが好みで、ガルニエ宮・オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許される定期会員になっていたことも、このモチーフで多く描かせた理由ともされている。

 作品に戻ろう、最晩年の作とされる本作、彼のお気に入りだったのか、ふたりの踊り子の稽古の様子を描いている。

 ふたりの踊り子と言えば、傑作 「<舞台の2人の踊り子>」(1874年頃/コートールド美術研究所蔵)が思い浮かぶ。
 このふたりの踊り子は 「<舞台のバレエ稽古>」(1874年頃/オルセー美術館所蔵)や 「バレエの舞台稽古」(1874年/メトロポリタン美術館蔵)にも登場していることも特筆すべき点のひとつとされている。

 本作の稽古する踊り子もまた同じ人物とも考えられ、この頃を境に視力が衰え、次第に彫刻へと制作活動を移していった老画家の郷愁が、四半世紀を経て本作を描かせたのかも知れない。

 余談だが本作を見て、橙色と青の大胆な色使いから 「<フェルナンド座のララ嬢>」(1879年頃/ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)を思い出した。

 ところでフリップスコレクション、ドガの踊り子をもう一枚、「ダンスのリハーサル」(1875-6年)を所蔵している。

 傑作 「<ダンス教室=バレエ教室>」 (1875年/オルセー美術館蔵)と、ほぼ同じ時期に描いたとされているが、こちらは随分と画調が暗い。
 それは、銀行家だった父が負債を残して逝き、時期を合わせて兄が事業に失敗した所為か、定かには知らないけれど勝手にそう思っている。
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1212

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シスレー 「ルーヴシエンヌの庭 ‐ 雪の効果」

2016年11月11日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(5) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(5)

 フリップスコレクション、19世紀後半にパリで生まれた<印象派>へと移る。

 パリ在住の裕福なイギリス商人の息子として生まれ、英国籍であり乍ら生涯の大半をフランスで過ごしたアルフレッド・シスレー(1839-1899)。
 穏健で控えめな性格だったとされ、豊かな感性でパリ近郊の風景画を数多く描いている。

 その彼の 「ルーヴシエンヌの庭 ‐ 雪の効果」が今回の作品。

 1871年の普仏戦争敗北後のパリ、世界最初の社会主義政権、パリ・コミューンを避け、同年から三年間暮らしたパリ郊外のルーヴシエンヌの冬景色を描いている。

 降り続く雪や屋根に積もる雪の柔らかい質感を表現した本作、やや青みをおびた大気と木々が寒さを示しているのと対照的に、家の壁や塀の茶や浅黄が幾分かの暖かみを補って、春の雪のような印象を与えている。

 雪道に傘を差し歩く女性は、突然の大雪に戸惑っているのかも知れない、そんな解釈をしたのだが、どうなんだろう。

 ちなみにシスレー、ルーヴシエンヌの雪景色をモチーフに 「<ルーヴシエンヌの雪>」(オルセー美術館蔵)を描いているが、そこには冬の厳しさが窺える表現になっている。

 ところで彼、本作の前年にほぼ同じ構想・構図で 「<ルーヴシエンヌの庭>」(所蔵不詳)を描いている。
 傘を差した女性、雪の朝に出掛けて、初夏の陽射しの昼下がりに帰って来た、なんてことないよねえ!
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1211

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ゴヤ 「悔悛する聖ペトロ」

2016年11月07日 |  ∟アメリカの美術館

 ※ ワシントンDC/フリップスコレクション(4) ‐ DC&NYの美術館にみる泰西名画選(4)

 前々回、マニエリスム期の画家エル・グレコ(1541-1614)の 「<悔悛する聖ペトロ>」を投稿した。

 そのグレコ、バロック期に活躍したベラスケス(1599-1660)、近代絵画の創始者ゴヤの三人を指して、スペイン絵画における<三大巨匠>と呼ばれることはこれ迄にも投稿した。

 余談だが、個人的にはこの三人にベラスケスと同時代の画家<ムリーリョ>(1617-1682/セビーリャ派)を加え、四大巨匠と呼んでいる。

 またしても前書きが長くなったが、「<裸のマハ>」や 「カルロス4世一家の肖像」(何れもプラド美術館蔵)などの問題作を描いたフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828/ロマン主義)。

 そのゴヤのグレコと題も同じの 「悔悛する聖ペトロ」が今回の作品。

 大病の後遺症で聴覚を失っていたゴヤ、1819年にマドリッド郊外マンサナレス河畔、聾者の家と自称する別荘へ移り住んだ翌月、三度目となる重病に罹るものの一命をとりとめる。

 本作は、その翌20年頃、別荘の壁に描いた問題作 「<連作・黒い絵>」とほぼ同時期に描かれたとされる。

 そんな状況の中で描かれた本作、主題は改めて説明することもないが、グレコのそれと比べるといかにも重く、悔悛する聖人に画家自身の苦悩が塗り込められているように感じたのだが、さて、どうだろうか?
 Peter & Catherine’s Travel. Tour No.1209

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