デヴィッド・ボーム(David Bohm)の名著
「ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ 」
が邦訳されました☆
■内容紹介
「対話の目的は、物事の分析ではなく、議論に勝つことでも
意見を交換することでもない。
いわば、あなたの意見を目の前に掲げて、それを見ることなのである」
対話(ダイアローグ)とは:
・情報やアイデアではなく「意味」を共有。
・明確な「目的」を定めなくてもいい。
・人を「説得」することは必要ない。
・あらゆる「想定」を保留することが重要。
「『愛があればすべてうまくいく』と言う人がいる。
だが残念ながら、すべてを救う愛は存在しない。
だから、もっと良い方法を考えなければならないんだ」
偉大な物理学者にして思想家ボームが長年の思索の末に
たどりついた「対話(ダイアローグ)」という方法。
「目的を持たずに話す」
「一切の前提を排除する」
など実践的なガイドを織り交ぜながら、
チームや組織、家庭や国家など、あらゆる共同体を協調に導く、
奥深いコミュニケーションの技法を解き明かす。
■著者について
デヴィッド・ボーム David Bohm
1917~1992年。物理学者。
ペンシルバニア州立大学卒業、カリフォルニア大学バークレー校で
理論物理学の博士号を取得。
量子力学の世界的権威として知られるほか、
人類と自然の調和、全人類の融和などをテーマとする哲学的思索でも名高い。
著書に『全体性と内蔵秩序』(青土社)、『断片と全体』(工作舎)などがある。
●発刊を記念して、以前あげた記事を再掲します!
デビッド・ボームの
「ホログラフィー宇宙理論」についてです。
主著「全体性と内臓秩序」から、東洋とのつながりを見ていきたいと思います☆
ちょっーと(かなり)難しい内容です(^-^;
以下出てくる緑の字のところは原文ですが、特に必要ないと思われる方は
無理して読まれなくても結構です(表現がとても学術的なので。。)
そして、今回は、先に要点を明記しておきましょう。
そのほうが分かりやすいと思いますので。
●「心」と「物」を分けた「デカルト・ニュートン近代科学思想」は
矛盾や問題を含んでいる。
●私=世界(宇宙)
《心(意識レベル)と身体を超えた、魂のようなモノがある》
●ホログラフィー宇宙論と仏教の唯識学とは共通点が多い
(阿頼耶識・業力・業種子など)
●科学は東洋の思想へと向かっている
といったところですね。
はじめてこのような内容に接する方には超難しい思いますが、
最初は、理屈やしくみを考えるより、
「最近の科学ではこんな研究やってるのかー!」とか
「何かしらんが凄そうだなー」
「科学的って言葉の認識を大きく変えないといかんのかなー」
など楽しみながら読んでみることをお勧めします☆
ではいきますよっ!!
まず知っていただきたいのは、デカルト的ニュートン的
世界観は様々な矛盾や問題を含んでおり、その世界観を
見直さねばならない、ということです。
そのことについてボームはいいます。
「世界を分離・独立して存在する諸部分に分析するとき、
このデカルト的秩序が相対論でも量子論でも、深刻な
矛盾と混乱に逢着しつつあることを見出す。
なぜならこの二つの理論からは、宇宙が分析されぬ
全体であることこそ現実の事態であり、独立した諸部分
への分析は実態にそぐわないことが結論されるからで
ある。」
なぜおかしいかってことを納得いくまで説明するのは難しいので、
この理論の結論だけ、知ってもらえればと思います☆
次に、デカルトは「物心二元論」を唱え、「心」と「身体(モノ)」は
別物だ、といいました。
しかし、この考えは正しいといえません。
「物心二元論」の矛盾が大きいため、唯物論の方が現在、力が
あるわけですが、これは決して唯物論が正しいということでは
ありません。
「物心二元論」「唯物論」を超えた第三の説があるのです。
それが、「心」と「身体(モノ)」は分けれない、という説であり、
もっといえば、私=世界(宇宙)という、ちょっと聞くと、
非科学的、非理論的、SF的、誇大妄想的なイメージを受ける
ことでしょう。
しかし、この第三の説こそ、ハイデッガーの「世界内存在」や
相対性理論、量子力学の行きつく世界観、宇宙観といえるのです。
その一つの説が「ホログラフィー宇宙論」であり、
後日、紹介します「超ひも理論」「M理論」「エキピロティック宇宙論」
などにつながる理論なのです。
いきなり「私=世界(宇宙)」といわれても、ついてこれない方も
多いと思いますので、できれば「西洋哲学は2回のパラダイムスフとを経て、東洋に帰結する!?」
シリーズを通読して頂きたいのですが、
すべては境界線を持つことができない(モノとモノとを分けれない)
ということをイメージしてもらいたいと思います。
そのことを踏まえて読んでくださいね☆
「(世界は)流れの中の渦のような構造をもった波動を考えればよい。」
「相対論と量子論は、次の点で一致している。
世界を分割不可能な全体として見なければならぬこと、
すなわち全体の中では、観測者や観測機器まで含めた
あらゆる部分が浸透しあい結びあって一つの総体を
なしていることを示している。」
「流動運動する分割不可能な全体性と呼ぶのが最善であろう。
事物より流れのほうが、ある意味で基本的存在である。
『事物』は『流れの中』で生成・消滅するものと見られる
からである。
『流れ』においては、精神と物質は互いに分離した実体
ではない。
それらは、分断されぬ一つの全体をなす運動の異なる
二側面である。
存在のどの側面も互いに他から分割されないと考える
ことができるようになる。」
共通して主張しているのは、この世界はホログラフィーのように
映し出された仮の世界であり、なるが故に、世界全体が私、
私が世界全体なのです。
ここまでが我、ここからが彼、と分けることが出来ないのです。
(表面的にはできても、つきつめていくと分けれなくなる。
これは一つの考え方ではなく、世界がそういう構造に
なっている、という説)
また次のようにも語っています。
「東洋の哲学や宗教は、全体性を強調し、世界を諸部分に
分けて分析することの無益さを示唆している。
東洋(とくにインド)では、全体的なものの見方が
今なお生き続けている。」
ずばりいえば、仏教の唯識学との共通点が多くみられるのです!
たとえば唯識学では次のようにいいます。
「この世界は阿頼耶識という心(本当の心)が生み出した世界である」
これはまさにホログラフィー宇宙論の説そのものですね。
しかも、
「阿頼耶識は滝のように、常に激しく水滴が動きつつも、滝全体という
ものは流れながら続いている」
これに対応するかのように、ホログラフィー宇宙論では
「ホログラフィーという表現は、静的で固定的な印象を
与えますが、「暗在系」はつねに変幻流転している、ということです。
これをボームは「全体運動」と表現したのです。」
とあります。
「噴水は、激しく水滴が動きながらも、一つの形をかたどっている」
と、滝とそっくりの、噴水のたとえで語られることもあります。
また、「阿頼耶」とは「蔵」という意味があるのですが、
(「識」は「心」という意味)
ホログラフィー宇宙モデルでは、暗在系のことを「内蔵秩序」
とも言われ「内蔵」されるというイメージはぴったりきます。
さらに、阿頼耶識には、「私たちの行為」=「業」が力となって
貯えられると教えられていますが、
ボームは、次のような言語学を展開し、固定的な
イメージを与える名詞よりも動詞(行為)を重んじています。
「動詞は、行為や運動を記述するものであるが、行為や運動
は明晰な分離や分割をもたず、他の行為や運動の中に
流れ込んで一体となっているからである。
それだけではない。
運動はつねに変化しているのが普通であり、運動の中には
永久不変の固定的パターンないし形態は存在しない。
したがって互いに切り離されたばらばらの事物といった
ものは運動の中には認められない。」
また、行い(業)は、業種子となって阿頼耶識に貯えられる
とも表現されており、目に見える結果(運命)を生み出す種とも
言われています。
そのことに対応するようにボームは次のように書いています。
「種子じたいはその植物体をじっさいに構成する物質の点でも、あるいは生長
に要するエネルギーの点でも、寄与するものをほとんど、あるいは全く
持っていない。
生長に要するエネルギーはほとんどがすべて土壌、水、空気、そして日光に
由来する。
しかし、現代の理論によれば種子はDNAという形で情報を含みこんでおり、
この情報が何らかのしかたで環境に『指令を与え』一戸の植物体を形成する
のである。」
「乾板(ホログラフが映し出される板)には二次的な重要性しかない。
なぜならそれは、空間の各領域に存在する光の干渉型状を、比較的
永続する『記録文書』として止めることが主要な役割だからである。」
ボームは「時空領域のそれぞれに、全体の秩序含み込まれている」と
いうことを次のようにもいっています。
「原理的には、この構造を宇宙全体にまで、そして全過去・全未来
にまで拡張することができる。
例えば夜空を仰ぐときを考えて見よ。
われわれはそこに、広大な時空の拡がりにわたって見出される多くの
構造を識別することができる。
だがそれらはある意味で、眼球で囲まれたちっぽけな空間内の光の
運動中にすべて含まれている。
ここに新しい秩序概念の萌芽がある。
この秩序はたんなる対象や事象の規則的配列として理解することは
できない。
むしろ時空領域のそれぞれに、ある陰伏的な意味で、全体の秩序が
含み込まれているのである。
さて「陰伏的」という語は、内蔵するという動詞から出ている。
後者の意味は「内側に包む」ことである。
それゆえ何らかの意味で、全体の構造が各領域のうちに「包み込まれ」
て含まれる、ということを表現する概念が求められてしかるべきで
あろう。」
う~ん、難しいかもしれませんが、全体と部分の関係を少しでも
イメージできたらいいですね。
細かいところを気にするよりも。
では、今一度、今日の要点をまとめてみましょう!!
●「心」と「物」を分けた「デカルト・ニュートン近代科学思想」は
矛盾や問題を含んでいる。
●私=世界(宇宙)
《心(意識レベル)と身体を超えた、魂のようなモノがある》
●ホログラフィー宇宙論と仏教の唯識学とは共通点が多い
(阿頼耶識・業力・業種子など)
●科学は東洋の思想へと向かっている
どうでしたでしょうか??
脳みそ破裂状態でしょうか?
それともこれくらいでは物足りませんか??
最初にも書きましたように、こういった内容は、理屈やしくみを考えるより、
「最近の科学ではこんな研究やってるのかー!」とか
「何かしらんが凄そうだなー」
「科学的って言葉の認識を大きく変えないといかんのかなー」
など楽しみながら読んで、インスピレーションするものを
発見するのがいいでしょう☆