尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

レヴィナス「実存から実存者へ」

2006年06月28日 21時14分23秒 | 読書記録
 サルトルやハイデッガーなどの実存主義的用語に慣れ親しんでいる人でさえ、この本でレヴィナスが述べている事柄が痛い程わかる人と、全くわからない人に分かれるのではないだろうか。論理的理解力よりも、その人の倫理的素質というものが、この書物に対する、理解の可能性を左右するのだと思う。
冒頭を抜き書きしますので、ぴたっと来た方は、本屋さんでこの本を買って一人で勉強してください。

☆この「存在」(ある、という根源的出来事…尾崎注)とは、いかなる存在者(名指して○○がある…と言えるような、コップとか机とか、つまり個々の事物…尾崎注)も自分がそれだとは主張しない無名の存在、個々の存在者ないし存在者たち
を欠いた存在であり、ブランショの比喩を借りていえば絶え間ない「騒動」であり、「雨が降る(il pleut)]とか「夜になる(il fait nuit)といった表現と同様に非人称の〈ある(il y a)〉である。(中略)

☆「壊れた世界」とか「覆された世界」という表現は、今やありふれた常套句と化してしまったが、それでもやはり掛け値なしの感情を言い表してはいる。
諸々の出来事が合理的な秩序から乖離(かいり)してしまい、ひとびとの精神が物質のように不透明になって互いに浸透し合えなくなる、そして多様化した論理は相互に不条理をきたし、〈わたし〉はもはや〈きみ〉と結びつきえない、その結果、知性がこれまでおのれの本質としてきたはずのものに対応できなくなる――こうした事態を逐一確認してみると、たしかに、ひとつの世界の黄昏(たそがれ)のなかに、世界の終末という古くからの脅迫観念が蘇ってくる。(中略)
実存は世界より先にある。そして世界の終末という状況のなかで、私たちを存在に
結びつける第一の関係が立てられるのだ。(中略)
世界の消滅によって(世界が終わったと思うことによって、あるいは意識の指向性を現象学的にエポケーすることによって…尾崎の注)、私たちは存在に注意を巡らすようになるのだが、その存在とは一個の人格でも一個の事物でもないからだ。それは、ひとが存在しているという事実、〈ある〉という事実なのである。

☆哲学が存在をめぐる問題であるならば、哲学はすでにして存在を引き受けである。そして哲学がこの問い以上のものだとすれば、それは哲学が、問いに答えることではなく、この問いを克服することを可能にしてくれるからである。そいて存在をめぐる問い以上のものがあるとすれば、それは真理ではなく善である。

☆異郷性(P112より)
芸術は諸々の事物を世界から浮き立たせ、そのことによって事物を一主体への帰属
という状態から引き離す。(略)
絵画や彫刻や書物といったものは私たちの世界に属するのだが、それをとおして再現された事物は私たちの世界から離脱しているのだ。(略)
芸術はいかに写術的なものであっても、その対象に他性という性格を伝えわたす。
芸術は、対象を裸のままで私たちに差し出す。
ドラクロアの世界があるようにヴィクトル・ユゴーの世界があるわけだ。芸術的現実とはひとつの魂の表現手段なのだ。この事物たちあるいは芸術家の魂の共感によって、作品の異郷性は私たちの世界に統合される。他人の他性が共感によって近づきうる〈他我〉であるかぎり、事態はそのようになるのだ。

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1 コメント

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はじめまして (ささやん)
2006-07-09 17:37:21
めずらしくレヴィナスの記事を発見したので書き込ませもらいました。「実存から実存者へ」は僕もいま読んでいる最中なんですが、難しいですね。



>この本でレヴィナスが述べている事柄が痛い程わかる人と、全くわからない人に分かれるのではないだろうか



そうかもしれませんね。そのせいもあるかもしれませんが、レヴィナス好きとレヴィナス嫌いに綺麗に分かれるみたいです。



では、また遊びにきます。
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