尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

「エズミに捧ぐ」より

2008年12月07日 21時31分18秒 | 好きな詩と詩論抄
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機―あらゆるキ―ノ―ウがだ、無傷のまま人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」



経文化と日記化の両極端を走り、読者を持たない現代詩にあって、むしろ古代からの詩は散文の中に細々と生きのびている、と言えるかも知れない。

世界と自分の何かが決定的に損なわれてしまってると感じている人は多いと思う。
それはいくら言葉や思想で補ってもザルのように漏れていく損傷である。
社会と個人のゆがみの中心には、ニヒリズムの原因であり帰結である戦争(ジェノサイド)の体験がある。
引用した二行に少しでも感じた人がいてまだ読んでいないなら、ぜひ一読を勧めます。

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贈与としての現代詩―汝の喪失とモノの快楽―

2006年05月03日 23時05分27秒 | 好きな詩と詩論抄
贈与としての現代詩
―汝の喪失とモノの快楽―


 「金で買えないものはない」と豪語していた青年起業家を、軽薄に拍手していると、あっけなくお上が捕まえてしまった。彼だって、街の本屋さんで買えなかったモノがあるだろう。私どものつつましい詩集である。
 原稿用紙二枚の制約で、現代詩とは何かを、その多様な内容からは答えにくい。が、流通のフォルムから述べると余ってしまう。「贈与」とその返礼の往還として、現代詩は存在している。つまり消費の時代に、市場の流通から現代詩はほとんど閉め出されてしまった。
 誇り高い詩人の側からいうと、詩とは値段などつけられない。かくして詩の現在は、その値打ちの分かる詩人の間を、詩が往還することでなりたっている。読み手は書き手であり、書き手は読み手であり、両者はほぼ同数である。純粋な読者はいない。最近流行のブログの詩まで、「読みました―読んでください」というような、往還の現象としてある。
 売れないことは致し方ないことだが、その理由は知っておいたほうがよいだろう。
 マルティン・ブーバーの思想を借りて述べると、近代とは「われ―汝」という世界から、「われーそれ」の世界への移行である。現代詩は「汝」の喪失を哀しむことと、「それ」(商品・物・情報)の獲得の快楽の間で引き裂かれている。日本の詩の歴史にあてはめると、四季派の抒情詩の流れが前者をモチーフにし、モダニズムから戦後の言語派の流れが後者をモチーフにしてきた。詩の表層の様々な意匠をはがしてみると、いわゆる「近代の超克」を言葉で行うことを、私どもの自由詩は無意識的に強いられている。現在がいつまでも戦後であり、同時にいつも戦前であることを知っているわけである。エンターテイメントを求める人々に、面白いはずがない。
大切なことは書き続けることだろう。もっと大切なことは読み続けることだろう。そう自分を励ましながら、少しは面白い工夫もして、誰も買わない詩どころか、誰も読まない詩を今日も書いている。

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北原白秋「白い月」

2006年01月21日 21時30分03秒 | 好きな詩と詩論抄
  「白い月」
    わかかなしきソフイーに

白い月が出た、ソフイー、
出て御覧、ソフイー、
勿忘草(わすれなぐさ)のやうな
あれあの青い空に、ソフイー。

まあ、何んて冷(ひや)つこい
風だろうね、
出て御覧、ソフイー、
綺麗だよ、ソフイー。

いま、やつと雨が晴れたーー
緑いろの広い野原に、
露がきらきらたまつて、
日が薄すりと光つてゆく、ソフイー。

さうして電話線の上にね、ソフイー。
びしよ濡れになつた白い小鳥が
まるで三味線のこまのやうに溜つて、
つくねんと眺めている、ソフイー。

どうしてあんなに泣いたのソフイー、
細かな雨までが、まだ、
新内のやうにきこえる、ソフイー。
ーーあの涼しい楡の新芽を御覧

空いろのあをいそらに、
白い月が出た、ソフイー、
生きのこつた心中の
ちやうど、かたわれでもあるやうに。


 目で読むと「ソフイー」のリフレインが多少ひつこいのではないかと感じましたが、日下武史さんの朗読を聞くと、このために催眠術的な効果があって心地よいです。現代詩にはない、音楽的な詩です。
さて、この詩の背景にある、本当のことは知りませんが、今はもうそこにいないソフィーに、あたかもそこにいるように、白い月の情景を切なく語りかけているような、詩として読みました。
(実際に一緒にいる恋人に、今見ている情景をこんなに細々述べるのは不自然ですから)
自分の心情をまったく述べないのに、女への哀切が伝わってくるのは見事としか言いようがありません。
最期の二行は白秋の実感ではないかと思います。(まこと)
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フェルメール「青いターバンの少女」の謎

2006年01月05日 20時01分40秒 | 好きな詩と詩論抄
 【CAMERA OBSCURA及び、私というBLACK BOX】

この絵は有名なフェルメールの「青いターバンの少女」です。
日常的な女の人を題材としているにもかかわらず、色合いといい深い陰影といい、瞳や真珠の耳飾りの光点の異様な明るさといい、謎めく不思議な趣があります。
敏感なあなたなら彼女の視線に少し恐いような、
「この世ならざる者」の視線を感じたかも知れません。
それは元をただせば作者フェルメールの特異な視線でもありますが、私達がこの絵を見るときにいわば彼女に魅入られて共有してしまう視線です。
彼女の視線と私達の視線は確かに交わっているのですが、異世界(異空間)の者同士として「ねじれて交わっている」のです。
(極論すれば、その美しい少女が生きているとすれば私達は死んでいるし、少女が死んでいるとすれば私達は生きている…と云った交わり方です)

そのためでしょうか、フェルメールは、写真機の前身である「暗箱(カメラ・オブスキュラ)」を覗きながら、この絵を描いたという説が生まれました。
事の真偽は別にして、私というブラックボックスの中へ射し込む、一筋の光を愛しむことから、絵にしろ詩歌にしろポエジイは立ち上がるのではないか、と思います。
近代の病である、唯我独尊的な、ブラックボックスが問題なのでありません。
それにもかかわらず、異空間から一筋の光が射し込むという場所に
ポエジイは発生するようです。

では、不思議なカメラ・オブスキュラの旅を続けましょう。
コメント (2)
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室生犀星「行ふべきもの」 

2005年12月25日 13時06分12秒 | 好きな詩と詩論抄
 「行ふべきもの」   
       室生犀星


詩よ亡ぶるなかれ、
詩よ生涯のなかに漂へ、
我が戯言(たわごと)も亡びることなかれ、
我が英気よ運命を折檻(せっかん)せよ、
行き難きを行け、
詩よ亡ぶるなかれ、
我が死にし後も詩よ生きてあれ。
汝の行ふべきものを行へ。


★詩よ亡ぶるなかれ‥詩よ生きてあれ‥‥いいですね!
犀星の詩はこうして日本語が滅ばない限り、白秋や朔太郎の詩と共に生き延びると思います。しかし僕の詩はもちろん、現代詩と呼ばれる大半の詩は生まれてすぐ死んでしまう運命にあるようです。それはそれとして、「詩よ亡ぶるなかれ」という気持ち、志は共通です。

僕が安心して訳のわからないいわゆる「現代詩?」を書いていけるのも、
「室生犀星」という心の故郷のような詩人を知りえたからだと思います。
もしあなたが詩を書いてみようと思われるなら、戦前の詩人の中で、一人でもファンを持つことをお勧めします。
戦争を境にして、残念ながらテクニックではなしに、詩の格の違いははっきりしています。何かを信じようとしている者達と、はじめっから信じられない所から始めなければならない私達の差です。
たぶん、私たちは何かを失ってしまっているのですが、何を失ったかさえ忘れてしまっているのです。彼らはその失いつつある時代と格闘したのではないでしょうか。)

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荒川洋治「詩とことば」

2005年12月22日 13時30分26秒 | 好きな詩と詩論抄
  「詩と散文」

「詩は、そのことばで表現した人が、たしかに存在する。たったひとりでも、その人は存在する。でも散文では、そのような人がひとりも存在しないこももある。(中略)
 散文そのものが操作、創作によるものなのだ。それは人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすものだから、人間の表現とはいえないと思う人は、散文だけでなく詩のことばにも価値を見る。(中略)
 散文は、果して現実的なものなのか。多くの人たちに、こちらの考えを伝えるためには、多くの人たちにその原理と機能が理解されている散文がふさわしいことは明らかだ。だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい。

 (以上は岩波書店から発売されたばかりの荒川洋治著「詩とことば」p.42から引用させていただきました。「詩と散文」としたのは、僕が仮につけた表題です。
 僕自身と見聞きする経験から云うことですが、詩を書き始めた人々は、まじめであるほど、およそ一年で「詩とはなにか?」というような原理的なことで行き詰ってしまうことが多いと思います。そのときに最適な、詩をほんとうに愛する数少ない詩人の一人、荒川さんのこの本を、お勧めします。「現代詩手帳」「詩と思想」など月刊の詩誌や同人誌では、あいかわらず「あれは詩ではない、我等のこれこそが詩である」と異質なものの排除と仲間褒めで、貧しい現代詩をより貧しくしている傾向があります。ほとんど読み手を失っているなかで、それでも本気で詩をやっていく人には荒川さんのこの本が強い味方になるとおもいます。
 さて、僕が詩を書き始めた契機の一つに、日常生活をほぼ全面的に支配している「散文」にたいして怒りに近い深い「懐疑」のようなものがありました。多少図式的になりますが、散文には近代市民社会を成立させている形而上学的な土台があると思います。本来なら二律背反の人間の「自由」と世界の「因果律」です。現在では科学文明の成果をまのあたりにして、無批判にうけいられている、いわばわれわれの共有する「神学」になっているように思います。‥‥ということを書いていくと、ますます僕は原理的においつめられていきます。というのは、散文で反散文的な自分の論理を展開していくからです。(笑)
このように詩を書く以外どうしようもない人が、めったに読まれないことを覚悟しながら、ひっそり書いて、ますます貧乏になってゆくものが詩なのかもしれませんね。(2005.1月記)

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川崎洋「詩は たぶん」

2005年12月17日 22時52分25秒 | 好きな詩と詩論抄
「詩は たぶん」
     川崎洋

詩は たぶん
弱者の味方
ためらう心のささえ
屈折した思いの出口
不完全な存在である人間に
やさしくうなずくもの
たぶん


 ★この詩の作者である川崎洋さんは、10/22の朝日新聞朝刊によると21日になくなられたそうです。合掌。
難解でないと現代詩ではない‥という偏見が詩壇にも一般読者にもありますが、わかりやすい日々の言葉で詩を成立させる詩人の力量こそ「非凡」であると言えます。
川崎さんの詩はこれからも読むたびに、ぼくらの凡庸なりにつらいところのある人生に、やさしくうなずいてくれると思います。
(2004年10月22日記、まこと)
 ★この詩が散文ではなく、みごと詩となり得ているいるのは最期の一行の「たぶん」であると思います。うまい詩を書こうとして「詩語」なるものを連ねている詩人気取りには絶対書けない、川崎さんの息遣いが聞こえるようです。自戒・・がんばらねばね。(2005年12月17日記、まこと)
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堀口大学「わが詩法」

2005年12月17日 21時30分37秒 | 好きな詩と詩論抄
 「わが詩法」
       堀口大学

言葉は浅く
意(こころ)は深く



  ★言葉は浅く、こころは深く‥‥
残念ながら、いわゆる現代詩は大学の目指した逆の方向、「言葉は深く(=難解)、こころは浅く(=観念的)」のほうに流れてきました。
僕達は、なるべく皆にわかりやすい言葉で、しかし深いこころの謎を探る勇敢な冒険者で在りたいものです。(まこと)

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堀口大学「詩」

2005年12月16日 11時39分39秒 | 好きな詩と詩論抄
 「詩」
      堀口大学

難儀なところに詩は尋ねたい
ぬきさしならぬ詩が作りたい

たとえば梁(はり)も柱もないが
しかも揺るがぬ一軒の家

行と行とが支えになって
言葉と言葉がこだまし合って

果てて果てない詩が作りたい
難儀なところに詩は求めたい


 ★難儀なところとはどんなところでしょうか?
「楽しい詩ではなくて、自分は苦労したとか、悩んでいる暗い詩を書きたい」
 ということではないと思います。
それが証拠に、大学はウイットとユーモアのある詩やエロティックな詩をたくさん書いています。
「世間や自分に妥協するような安易なところではなくて、前人未踏の心の真剣なところで書きたい」
 ということだと思います。
そうでないと、人の心をほんとうに打たないからです。
詩の志がそうであるのは、とらえようとする人生はいつも前人未踏だからです。


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堀口大学「定義」

2005年12月16日 11時32分08秒 | 好きな詩と詩論抄
 「定義」
 
詩はそんなものではない


 ★これが詩と詩論のアイロニーだというような、「一行詩」です。
 しかし大学は、奇をてらったののではありません。
 「詩の定義」としては一級のものだと思います。
 詩人は一応完成した自分の作品を見て、「詩はそんなものではない」と言い放  ち、もう一度挑戦するか、これを捨てて次の作品に取り掛かるのではないでしょ うか。)


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うまい詩には気をつけろ

2005年12月01日 08時55分42秒 | 好きな詩と詩論抄
ほとんど実質を失ってしまった詩であるのに
自分が宗主であるかのように
批評と称して
他者の詩の上手下手を言い合うことが
いかに詩をさらに堕落させていることか
若い人たちから
詩を奪い去っていることか

朔太郎は詩がうまかったか?
中也は詩がうまかったか?
賢治は詩がうまかったか?

ガラス玉とダイヤモンド、
その中間の物質がないように
あるのは詩ではない詩と
詩である詩ではないか


   (まこと)
コメント (3)
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