尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

ドミニック・ランセ「ボードレール」

2006年05月31日 00時28分57秒 | 読書記録
〈抄録〉
★1857年という年は、19世紀フランス文学史、ひいてはわれわれの20世紀文学史のうえでも、決定的な年であった。その年ほとんど同時に二つの「スキャンダラス」な作品が刊行されたのである。さなわちギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」とシャルル・ボードレール「悪の華」である。(略)この詩人と小説家は、この二作品においていわば美学に大鉈を振るっているのであり、その結果、彼らの本によって終わりを告げられる伝統の時代の「息の根を止め」、それと同時に、おのおののやり方で現代性(モデルニテ)の時代の始まりを画しているのである。
★『悪の華』の作者の言語は、時間と歴史についての新しい自覚であり、自然のままの、あるいは「世俗的な」外観への嫌悪であり、理性に異をとなえる対話者としても想像力の再確認であり、あまりに長きにわたって日常から逃れ、それを知らずにいた芸術を、その日常のなかで「軌道修正すること」である。
★この新しい柔軟な精神により、ボードレールの作品は、単に存在に関するものではなくまさに存在論的な次元での企てになっている。
★「私は千年生きたよりも多くの思い出を持っている」
★だが、憂鬱の暴力そのものであるこの持続のテロリズム、後にマラルメがほとんど同じ表現で描き出す「恐怖の連続」を、いかにして乗り越えるか、要するに、憂鬱を消すために、いかにして「時間を潰す」か。それは時間を害虫のように切断し、輪切りにすることによってである。
★ボードレールの生涯にも作品にも女性が欠けていないのは、彼女らが自然というものに「原簿の上で」属しており、そのことによって、彼の以下の希望を正当化してくれるからである。すなわち、彼女らのもとで、彼女らを通して、あるいはむしろ彼女らから出発して、彼女たちの存在そのものである自然というものに最大限の異議申し立てをする希望である。
★言説の「横座標」に置くことができる「水平的」」照応は、もう一方に比べ、より単純でより明白である。この照応の機能は、文章または詩句の直線軸上で、直喩や隠喩といった文彩の流れにそって、外見的には「離れている」要素(事物、装飾、感覚など)を近接させることにある。
★縦座標に置くことができる「垂直的」照応は、水平的照応よりかなり微妙で本質的である。ここではもはや、現実という有限な全体の各断片がばらばらになってできた「パズル」を再構成することが問題なのではなく、これこれの断片から出発して、この現実をそれが持つ意味の最高点、あるいは最終点にまで高め、「引き上げる」ことが重要なのである。
★この二例にうかがえる意図は(「万物照応」Ⅳ)両方(水平的、垂直的)同じく、、現実の偽りに満ちた多様性をイメージの心強い単一性に置き換えることで、実生活での挫折を言葉による幸福に置き換えることを目指すものである。
★ボードレールがどこかでベルトランと繋がっているとしたら、「それはまさしく、イメージのために音楽を黙らせる――少なくとも音を弱める――(R.コップ)」という意志においてである。
★ポール・ヴァレリー「ヴェルレーヌとランボーが、ボードレールを感情と感覚の次元で継続したのに対して、マラルメは、彼を完璧さと詩の純粋さの領域で延長したのだ」

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朔太郎の女

2006年05月30日 08時32分42秒 | 詩の習作
むかしたしかに
空気枕
というものが
あった
風船が
枕になったと
喜んだ

朔太郎の女が
ふくらませたり
しぼませたりしている
その合成樹脂の匂いの
空気
列車の中で
ぴゅうぴゅう
鳴っている

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ヨットだ

2006年05月30日 08時20分48秒 | 詩の習作
達治を読む
 
 蟻が
 蝶の羽根をひいいて行く
 ああ…

ヨットか
ヨットだ

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透明人間

2006年05月30日 00時10分53秒 | 詩の習作
じぶんは透明である
言葉はかみそりである
言葉は包帯である
じぶんの内側で振りまわし
じぶんの内側で巻いている
透明人間が姿を現す

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草いきれ

2006年05月29日 23時21分31秒 | 短詩集
草いきれに
いら立つ
56回目の夏
まだ
死にたがっている




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2006年05月29日 21時34分29秒 | 詩の習作
可愛い女を
記憶の湖に浮かべ
ボートのように
揺すってみる
僕は
死んだ人を
夜明けまで
揺すったことがある

そんな湖がある

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キス

2006年05月28日 23時39分49秒 | 詩の習作
キスをするときは必ず
イエスの頬を吸った
ユダのキスを思い出しなさい
キスが終わればあなたは倒れ
それを合図に
僕は去っていくのだ

暗闇に詰問されれば
ペテロのように
あなたは知らない
あなたは知らない
あなたは知らない
と頬を紅くして
僕は三度
言いはるだろう

しかしたとえ鶏が鳴いても
白々しい朝の光を浴びても
ほんとうに
僕はあなたを思い出さないのだ
キスをするとは
今日そういうことだ
それで泣いてしまったのだ
僕もあなたも
手の平の傷を見ながら

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長い手紙

2006年05月27日 23時33分41秒 | 詩の習作
わたしの
女は病気です
細い青い
乳房をしています
長い長い手紙を
ほしがります
僕の手紙を食べて
生きてます
顔をあげたら
口をインクで黒くして
死んだらあかん
と言うてます
むしゃ むしゃ むしゃ
わたしの
女は病気です

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田中冬二「青い夜道」

2006年05月27日 01時07分17秒 | 読書記録
昭和4年、田中冬二、三五才の処女詩集である。

経歴をみると、詩人にありがちな哀しい生い立ちを持つ人だが
銀行を定年まで勤めあげたのはめずらしい。
その後、日本現代詩人会H氏賞選考委員会に就任、第五回高村光太郎賞受賞、
勲章ももらうなど、その孤独で清貧な詩風からはちょっとそぐわない活躍だ。
二重の生活と心を生きた人(あるいは生きえた人、生きざるをえなかった人)だと思う。
どちらもほんとうの田中さんだ。
残るのは詩だけである。
残った詩を一つ…

  くずの花

ぢぢいと ばばあが
だまつて 湯にはひつてゐる
山の湯のくずの花
山の湯のくずの花

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太陽が千個

2006年05月26日 22時41分01秒 | 詩の習作
君の瞳の
緑の水平線には
太陽が
千個並んだだろう
それでも
君はゆっくり
まぶたを閉じて
知らん顔したのだ
沈んでいく
一つの
太陽のことなんか
僕らの歩いた
地球のことも

千個の日没なんて
一つより
あっけない

帰り道に
月が
千個あがった

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吉本隆明「詩とは何か」

2006年05月26日 14時29分35秒 | 読書記録
題名の通り吉本隆明の詩論集である。
いつものように語り口は平明で、僕のような初心の読者にもわかりやすさをこころがけているようで好感が持てる。が、かんじんな急所で分かりにくくなる。
ひょっとしたら、これが彼の詩法(?)の罠、ようなものかもしれない。わからないのは自分が頭が悪いからだと思ってしまい、後日類書や解説書求めて読んでしまう。
だれかが「特攻の精神」などと形容していたと思う。テキストの内容の背後に存在する、鬼気迫るものが魅力なのは確かだ。
 
 彼の語り口、文体が思想なのだから、つまらない感想は入れないで、さわりのエキスを抜き出してみます。現在、「詩」そのものだけでなく、「現代詩手帖」などに掲載されている、巷の詩論と呼ばれているものまでがが、いかに「修辞の時代」に取り込まれているか、分かると思います。そして、以下の文章を読んで心にぐさっとくるあなたならば、その時代の終わりを望んでいる詩人か読者であるわけですから、本屋さんに行って、よかったら買いましょう。

★「ぼくが真実を口にすると、ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によって ぼくは廃人であるさうだ」という一節をかいたことがある。
★すくなくとも、『転位のための十篇』以後の詩作を支配したのは、この妄想である。
★詩は必要だ、詩にほんとうのことをかいたとて、世界は凍りはしないし、あるときは気づきさえしないが、しかしわたしはたしかにほんとのことを口にしたのだといえるから。そのとき、わたしのこころが詩によって充たされることはうたがいがない。
★詩とは何か。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。こう答えれば、すくなくともわたしの詩の体験にとっては充分である。
★わたしはなぜ、じぶんがほんとのことを口に出せば、世界を凍らせるかもしれないという妄想をもったのだろうか。おそらく、年少の頃ある日ほんとのことを口に出したのだ。いやほんとのことを幻想したこを喋言ったのであってもよい。そのとき、対者であるAはじっさいに凍ったような表情をした。
★しかし、朔太郎もハイデッガーも詩人がそれぞれの仕方で現実から禁圧されていることと、詩をかくことまたはかかれた詩とを一元的にむすびつけている。朔太郎では詩は現在しないものへの憧れであり、ハイデッガーでは歴史を担う根拠である。
★(折口信夫の抒情詩の起源についての引用のあと)…古代人の意識の自己表出が神の口として、いいかえれば宗教的な自己表出の形をかりて叙事詩として語られたように、叙事詩の物語性が、さらに自発的な表出力の面で抽出されたところに抒情詩がうまれることが指摘されている。たいせつなのは、詩が、あたかも金太郎飴の切口のように、意識の自発的な表出性という断面をさらしながら分化するという特徴である。

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永遠

2006年05月25日 23時33分09秒 | 詩の習作
生きているものと
生きているものの関係
生きているものと
死んだものの関係
死んだものと
生きているものの関係
死んだものと
死んだものの関係
永遠

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ほら、こんなふうに

2006年05月25日 23時24分15秒 | 詩の習作
改行が
魔法のように
思えた日々
改行が
詐欺のように
思える日々
ほら
こんなふうに
明日が来た

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オルフェウスの歌

2006年05月25日 21時05分26秒 | 詩の習作
エウリュディケ
禁じられたお前の姿を
振り返って見てしまったように
ほんとうのことを言えば
世界は凍りつくのだろうか
確かにむかし
そんな言葉を聞いたのだ

それでもほんとうのことを
さらに言いつのれば
世界は蘇り
神の竪琴を弾くように
歌いだすのではなかろうか

確かにむかし
そんな言葉を僕は見たのだ
愛しいエウリュディケ
お前と共に
コメント (2)
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祭り

2006年05月25日 11時03分41秒 | 詩の習作
人のお面をあざけるだけ
仮面と皮膚の継ぎ目から
自分の顔を縁取る血を流し

爪で剥がそうとして
剥がせない
わたしというお面
に取り憑かれ祟られながら
金の塔の周りを回っている

お祭りである
女は怒れる父である
母はつるつるの
ペニスである
息子は革命をあきらめる

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