〈抄録〉
★1857年という年は、19世紀フランス文学史、ひいてはわれわれの20世紀文学史のうえでも、決定的な年であった。その年ほとんど同時に二つの「スキャンダラス」な作品が刊行されたのである。さなわちギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」とシャルル・ボードレール「悪の華」である。(略)この詩人と小説家は、この二作品においていわば美学に大鉈を振るっているのであり、その結果、彼らの本によって終わりを告げられる伝統の時代の「息の根を止め」、それと同時に、おのおののやり方で現代性(モデルニテ)の時代の始まりを画しているのである。
★『悪の華』の作者の言語は、時間と歴史についての新しい自覚であり、自然のままの、あるいは「世俗的な」外観への嫌悪であり、理性に異をとなえる対話者としても想像力の再確認であり、あまりに長きにわたって日常から逃れ、それを知らずにいた芸術を、その日常のなかで「軌道修正すること」である。
★この新しい柔軟な精神により、ボードレールの作品は、単に存在に関するものではなくまさに存在論的な次元での企てになっている。
★「私は千年生きたよりも多くの思い出を持っている」
★だが、憂鬱の暴力そのものであるこの持続のテロリズム、後にマラルメがほとんど同じ表現で描き出す「恐怖の連続」を、いかにして乗り越えるか、要するに、憂鬱を消すために、いかにして「時間を潰す」か。それは時間を害虫のように切断し、輪切りにすることによってである。
★ボードレールの生涯にも作品にも女性が欠けていないのは、彼女らが自然というものに「原簿の上で」属しており、そのことによって、彼の以下の希望を正当化してくれるからである。すなわち、彼女らのもとで、彼女らを通して、あるいはむしろ彼女らから出発して、彼女たちの存在そのものである自然というものに最大限の異議申し立てをする希望である。
★言説の「横座標」に置くことができる「水平的」」照応は、もう一方に比べ、より単純でより明白である。この照応の機能は、文章または詩句の直線軸上で、直喩や隠喩といった文彩の流れにそって、外見的には「離れている」要素(事物、装飾、感覚など)を近接させることにある。
★縦座標に置くことができる「垂直的」照応は、水平的照応よりかなり微妙で本質的である。ここではもはや、現実という有限な全体の各断片がばらばらになってできた「パズル」を再構成することが問題なのではなく、これこれの断片から出発して、この現実をそれが持つ意味の最高点、あるいは最終点にまで高め、「引き上げる」ことが重要なのである。
★この二例にうかがえる意図は(「万物照応」Ⅳ)両方(水平的、垂直的)同じく、、現実の偽りに満ちた多様性をイメージの心強い単一性に置き換えることで、実生活での挫折を言葉による幸福に置き換えることを目指すものである。
★ボードレールがどこかでベルトランと繋がっているとしたら、「それはまさしく、イメージのために音楽を黙らせる――少なくとも音を弱める――(R.コップ)」という意志においてである。
★ポール・ヴァレリー「ヴェルレーヌとランボーが、ボードレールを感情と感覚の次元で継続したのに対して、マラルメは、彼を完璧さと詩の純粋さの領域で延長したのだ」
★1857年という年は、19世紀フランス文学史、ひいてはわれわれの20世紀文学史のうえでも、決定的な年であった。その年ほとんど同時に二つの「スキャンダラス」な作品が刊行されたのである。さなわちギュスターヴ・フローベルの「ボヴァリー夫人」とシャルル・ボードレール「悪の華」である。(略)この詩人と小説家は、この二作品においていわば美学に大鉈を振るっているのであり、その結果、彼らの本によって終わりを告げられる伝統の時代の「息の根を止め」、それと同時に、おのおののやり方で現代性(モデルニテ)の時代の始まりを画しているのである。
★『悪の華』の作者の言語は、時間と歴史についての新しい自覚であり、自然のままの、あるいは「世俗的な」外観への嫌悪であり、理性に異をとなえる対話者としても想像力の再確認であり、あまりに長きにわたって日常から逃れ、それを知らずにいた芸術を、その日常のなかで「軌道修正すること」である。
★この新しい柔軟な精神により、ボードレールの作品は、単に存在に関するものではなくまさに存在論的な次元での企てになっている。
★「私は千年生きたよりも多くの思い出を持っている」
★だが、憂鬱の暴力そのものであるこの持続のテロリズム、後にマラルメがほとんど同じ表現で描き出す「恐怖の連続」を、いかにして乗り越えるか、要するに、憂鬱を消すために、いかにして「時間を潰す」か。それは時間を害虫のように切断し、輪切りにすることによってである。
★ボードレールの生涯にも作品にも女性が欠けていないのは、彼女らが自然というものに「原簿の上で」属しており、そのことによって、彼の以下の希望を正当化してくれるからである。すなわち、彼女らのもとで、彼女らを通して、あるいはむしろ彼女らから出発して、彼女たちの存在そのものである自然というものに最大限の異議申し立てをする希望である。
★言説の「横座標」に置くことができる「水平的」」照応は、もう一方に比べ、より単純でより明白である。この照応の機能は、文章または詩句の直線軸上で、直喩や隠喩といった文彩の流れにそって、外見的には「離れている」要素(事物、装飾、感覚など)を近接させることにある。
★縦座標に置くことができる「垂直的」照応は、水平的照応よりかなり微妙で本質的である。ここではもはや、現実という有限な全体の各断片がばらばらになってできた「パズル」を再構成することが問題なのではなく、これこれの断片から出発して、この現実をそれが持つ意味の最高点、あるいは最終点にまで高め、「引き上げる」ことが重要なのである。
★この二例にうかがえる意図は(「万物照応」Ⅳ)両方(水平的、垂直的)同じく、、現実の偽りに満ちた多様性をイメージの心強い単一性に置き換えることで、実生活での挫折を言葉による幸福に置き換えることを目指すものである。
★ボードレールがどこかでベルトランと繋がっているとしたら、「それはまさしく、イメージのために音楽を黙らせる――少なくとも音を弱める――(R.コップ)」という意志においてである。
★ポール・ヴァレリー「ヴェルレーヌとランボーが、ボードレールを感情と感覚の次元で継続したのに対して、マラルメは、彼を完璧さと詩の純粋さの領域で延長したのだ」