著者から読者へ(抜粋)
いま、叙情が危ない。われわれのこころの世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。
叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。
いまこそ、「歌」の精神を取り戻すときではないか。
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おっしゃやる通りだ。短歌は知らないが、現代詩とは魂の抜け出た後の、ミイラの叫びである。かつて小野十三朗は批判精神を堅持するために「歌うな」といったが、われわれはもう「歌えない」のだ。
詩のことはさておいて、しかし、現代が叙情の喪失の危機であるという時代認識は、むしろ「近代」の属性であって、近代から区別されるわれわれが生きている「モダン」の特性としては、叙情の喪失後をいかに生きるか?、新しい叙情の創出、にかかっているのではないか。
うまくは云えないけれど、そこまで来ていると僕は思う。山折さんは、伝統的詩歌と歌謡に底流する叙情の本質を、「生命の高揚感と無常観」に見ている。まさにその本質に対して、近代化の結果である人工的な現実(新しい自然)が、無効を宣言しているのではないか。
だから我々を育んできた叙情が無用ということではなくて、叙情を蘇生させるためには、因果律的ではないあたらしい感覚と認識の枠組みが必要だと感じる。
文明の最後尾をほとんど落伍者のよにに歩いている、詩のわずかな可能性はそこにあるのだろう。皮肉ではなく、ミイラ君がんばれ!と言うべきだ。(まこと)