尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

2011年05月20日 23時57分41秒 | 読書記録
3/11以来、読むに耐えうる本はほとんどない…と感じているのは、僕だけではないでしょう。
この『重力と恩寵』は例外です。今だからこそ、彼女の言わんとすることの何かが実感できるのだ、とも言えます。以下、P.51からの引用です。


 極端な不幸が、完全に達したこのたましいの中に生じさせる神の不在とは、どういうものなのだろうか。…(略)
…あがないの苦痛(イエスの十字架上の苦しみ―尾崎記)を通して、神は悪の極みの中にも存在する。なぜなら、神の不在とは、悪にあい応じた形での神の存在の仕方だからである。―その不在は感知できるのである。自分の中に神がいない人は、神の不在を感知することができない。

 悪の単調さ。なにも新しいものがない。そこではすべてが等質である。なのも実在するものがない。そこでは、すべてが架空のものである。(P.117より)

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「はじめての宗教論」 右巻・佐藤優著

2010年03月05日 00時43分52秒 | 読書記録
宗教の特賞は、「見える世界」と「見えない世界」というふたつの世界を結び付けるところに特徴がある。近代(モダン)とは、「見えない世界」を捨象して「見える世界」を中心的に扱うことによって成立している。(P.10)

現代人は「見えない世界」を軽視し「見える世界」に意識を集中しているのは、実は時代の認識のありかたに制約されているからだ。つまり数値化は不可能でカネへの換算ができないもの、例えば慈しみとか、思いやりとか、愛情とか、友情とかが分からなくなってしまう。(P.16)

近代すなわち世俗化の時代とは、ヒューマニズムの時代でした。要するに、超越的な神ではなくて人間が中心になる現象です。
もうひとつ、近代とは「ヨーロッパ」が肥大した時代です。(P19)

ヒューマニズムを起点とすると、死に伴う超越性の問題が消えてしまう。
超越性を無理やり消し去ろうとすると、超越性の代理物が人の内面に入り込んでくる。それが、近代以降、ナショナリズムが宗教に替わる超越的な力をもった理由である。(P.24)

民主党が総選挙で勝利した、2009年8月30日の意味。
この日をもって日本人ははじめて東西冷戦構造の終わりに、もっと言うと、近代の終わり(つまり近代の完成でもある)に直面したということである。(P.58)

国体とは国家の原理である。1945年9月、マッカーサーが昭和天皇と会見した時、日本の国体は変更された。この会見によって、象徴天皇制への道筋ができあがり、アメリカの意にそうような形で、国体が変更された。日米安保条約が戦後の国体の根幹となった。今回日本がアメリカとの関係を再検討しようとしているのは、日本が生き残るためにアメリカとの関係の調整が必要だ、ということになる。

神学は、救済のためにある。基本的に悩める人のための学問である。まったく幸福で、死をも恐れない人には不要である。(P.68)

キリスト教にとっての啓示とは、人間の実存の外、すなわち外部から突然やってくるのもだ。近代という画期によって、キリスト教は外部性という前提をやがて失い、直観と感情の世界、自己完結した内面の世界にたどりついた。これによってプロテスタント神学者フリードリッヒ・ゴーガルテンが言うところの「禍なる転化」が起きた。(P.160)

神の似姿として造られたところからくる、人間の自由意思によって、人間は必ず悪いことをする、これがプロテスタンティズムの人間観の根本だ。
神と人間の間のすべてのことはイエス・キリストを通じてのみ行われる。これがプロテスタント神学の考え方です。(P.190)

すべてのキリスト教は、人間は原罪にまみれており、この世界は苦であり、悪が存在すると考える。
神が人になる、ということがキリスト教神学における「受肉論」である。(P.191)

仏教が救済に関して見事なドクトリンを展開しているから、救済に関して相当掘り下げた考えを展開しなければ、誰もキリスト教には帰依しないということだ。

人間は神学を研究すると、必ず変容してくる。テキストを読むことは、テキストによって自分が読まれていくことである。(最近では、マクグラスの教科書がバランスのとれた優れたテクストである)

信仰とはすぐれて倫理的な問題である。
受肉論がキリスト教の考えの大きな特徴である。「見えない世界」と「見える世界」をつなぐ回路が受肉ということになる。

道徳とは善悪についての一般基準。これに対して倫理とは、特定の人が個別具体的な状況でとる決断のこと。

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リルケ「ドゥイノ悲歌」

2010年02月20日 23時02分22秒 | 読書記録
『ドゥイノ哀歌』は『オルフェウスに寄せるソネット』と並ぶリルケ(1875-1926)畢生の大作である。<ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?>と書き始められた調べの高いこの悲歌は、全10篇の完成に実に10年もの歳月を要した。(表紙より)

以下第九の悲歌より。

それゆえ(死の国へ)たずさえてゆくのは、苦痛や悲しみだ。とりわけ重くなった体験だ、愛のながい経過だ、――つまりは
言葉にいえぬものばかりだ。しかし、さらにのちに
星々のあいだに達したら、それらのものも何になろう、星々こそは、よりすぐれて言葉には いえぬものなのだ。
とすればこうだ。登山者は山上の懸崖(けんがい)から
言葉にはなりえぬ一握りの土を谷間へもちかえりはしない、
からがもちかえるのは、獲得した純粋な一語、すなわち黄に碧(あお)に咲く
りんどうだ。だから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺、果樹、窓――と、
もしくはせいぜい、円柱、塔と……。
                  ()の中は尾崎の注。


  
 ドゥイノ悲歌の核心であると僕が感じた部分を取り出してみました。リルケの大のファンというほどのこともないのですが、たぶんこの直観に間違いはないと思います。
この世界のほとんどは、言葉にならないものによって成り立っています。それを一番知っている人間が「詩人」です。だからこそ、彼は一生を費やして「りんどう」という純粋な一言を獲得し、われわれの生みの母である星々のところへ持ち帰ろうとするのでしょう。
 初めて読んですんなり分かるということはないと思います。リルケの本文のあとに、本文よりも長くて親切な手塚氏による注があり、本文→注→また本文に戻って読むといいかもしれません。

   

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森 有正著「いかに生きるか」より

2009年10月17日 00時14分46秒 | 読書記録
「一つの経験に一つの人格」

 ただその人間の形をしたのが、ひょこひょこ歩いている、だから人が一人いるというのではなくて、そこに他の人の経験をもっては置き換えることのできない、経験が存在しているのです。…
  私は三歳の女の子を亡くしましたけれども、ほんの片言しか言えない子が、もう親がそこへ入っていくことのできない、人格というものを持っています。子供だから判断はなにもできませんけれども、あるときには親の言うことを拒絶する、怒って泣く、親をもっても置き換えることのできない人格を、その子供は持っています。
そのように一人一人の人間は、一つ一つの経験によって定義されます。あるいは人間の人間的特質を定義するものこそ、この経験というものにほかなりません。
(P.66~67)

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石川啄木「一握の砂」

2009年03月22日 01時02分12秒 | 読書記録
浮遊する逃避のことばたち=現代詩もびっくり!
ビビッドな三行詩として読みました。

文庫版ですが、初版本の体裁である「四首見ひらき」で読むことが出来ます。
ひとつひとつの歌はもちろんそれぞれ自立した傑作ですが、啄木が一気読み切りを意図とした三行詩の「詩集」として読むと、さらに圧倒されてしまうものがあります。
では、そのなかから、僕の記憶に残ったものを書き出してみますので、
あとはぜひ本屋さんで買って読んでください。


かなしさは
飽くなき利己(りこ)の一念を
持てあましたる男にありけり

手も足も
室(へや)いっぱいに投げ出して
やがて静かに起きかへるかな

非凡なる人のごとくにふるまへる
後(のち)のさびしさは
何にかたぐへむ

箸(はし)止めてふつと思ひぬ
やうやくに
世のならはしに慣れにけるかな

何やらむ
穏(おだや)かならぬ目付して
鶴嘴(つるはし)を打つ群を見てゐる

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと

大いなる水晶の珠を
ひとつ欲し
それにむかひて物を思はむ

人間のつかはぬ言葉
ひょっとして
われのみ知れるごとく思ふ日

死にたくてならぬ時あり
はばかりに人目を避けて
怖き顔する

何かひとつ不思議を示し
人みなおどろくひまに
消えむと思ふ

人といふ人のこころに
一人づつ囚人(しゅうじん)がゐて
うめくかなしさ

わが抱く思想はすべて
金なきに因(いん)するごとし
秋の風吹く

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

宗次郎(そうじろ)に
おかねが泣きて口説くど)き居(を)り
大根の花白きゆふぐれ

力なく病みし頃より
口すこし開(あ)きて眠るが
癖となりにき

松の風夜昼(よひる)ひびきぬ
人訪(と)はぬ山の祠(ほこら)の
石馬の耳に

手袋を脱ぐ手ふと休(や)む
何やらむ
こころかすめし思ひ出のあり

新しきサラドの皿の
酢のかをり
こころに沁みてかなしき夕べ

やや長きキスを交して別れ来し
深夜の街の
遠き火事かな

水のごと
身体(からだ)をひたすかなしみに
葱(ねぎ)の香(か)などのまじれる夕(ゆふべ)

底知れぬ謎に向ひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる

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「対談 現代詩入門 大岡信・谷川俊太郎」

2008年01月17日 23時20分38秒 | 読書記録
1982~1983年の大岡さんと谷川さんの対談である。
現代詩の抱えている問題という点に関して、(読者をほとんど失ってしまった深刻さを除いては)当時、すでに出そろっていたことが、読み取れる。経済的にはバブルの崩壊した90年代を、失われた10年と揶揄されたりするが、文化的には80年代から日本の「失われた50年」というようなものが始まったのではないだろうか。

  〈抄録〉

   凝縮された言葉へ
谷川「だから、そういうふうに、表現の手段やメディアが非常に多様化してきたというところに、逆に言うとまた、現代詩の持っている一種の特別な質というものが見直されるということもあると、僕は思うのね。そういう形で、詩があまりにも普通の人間の暮らしの中に拡散してきているから、そういうものだけではどうしても満たされないものが出てきた場合に、やはり、詩という極度に凝縮したような形のものを求めるという動きも、ぼくは同時にあるような気がするんだよね。」P.29

  
現代の意識の表現
大岡「…そうでなくて、どちらかといえば無神経に、平然とお喋りを繋げていくところがある。それは欠点なのか…まあぼくは欠点だと思う。詩というのは、短い言葉でもずばっと言えるところがないと、散文と繋がってしまうからね。…それから、行間の余白が持っている力に、いまは信頼が置けなくなっているということは僕も同感だな。」P.76

谷川「でも、母語のまつわりつくようなものがいやだ、そこから逃れたいというのは、ぼくは戦後詩人に共通してあったとも思うんだよね。」
大岡「うん、あった。」
谷川「だけど、そうやってもっと明晰な個というもの、批評できる個というものを打ち立てようと思ってがんばってきて、ふっと気がついてみたら、もう核家族の世の中になっている。しかもその核家族すら危ういような世の中になっているという感じがあるよね。」P.145



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「実存からの冒険」 西 研著

2007年12月31日 23時58分54秒 | 読書記録
再読ですが、今年最後の読書となりました。
僕が学生の頃(30年近く前です)、さかんに云われた言葉で、今、ほとんど死語となった言葉に「実存」と「疎外」があります。
時代の要請で、死語になるべき運命だったかもしれません。
我々の日常というものが、「実存」と呼ばれたものから全面的に逃走した結果であり、疎外されきった人間によって無自覚に再生産されている、ということもできるでしょう。バブル経済の破綻以降、この二つの死語にくらべて、盛んに使われる言葉は「閉塞感」ですが、我々の気分を言い表すにはふさわしいけれど、なんの展望も開けない概念だと思います。

本書は日本に輸入された「ポスト・モダン」の思想がなんであったか、ということを説明し、その勢いで、ニーチェとハイデガーとヘーゲルを、自分がよりよく生きるための人生哲学として読み直し、若い読者に提供しようとしたものです。
暗い顔して読んでから、難しい言葉で皆を煙にまくための「哲学入門書」ではなく、ほんとうにそれぞれの生きる場所で、「よりよく生きるための哲学」になっています。

   【抄録】(P.246)
 
 自分のいままでや現在をなんども考えてみる、という内省の方法だけでは、自分はなかなかみえてこないことも多い。批評というやり方は、共感や反感をもとにして自分を確かめられるというところがいいところなのだ。
 こうやって自分を解きほどいていくことは、コトバの秩序を自分なりに編み変えていく、ということでもある。私たちの〈世界=内=存在〉の了解は、コトバのかたちをとっているから、了解が深まることはコトバを編み換えることなのだ。じっさい、ぴったりしたコトバが見つかると「わかった」という実感がやってくる。

 まさに「これや、わかった!」という経験は、詩を推敲していたり、他の人の詩を何度も読んだりしていて、ついにぶち当たる体験でもありますね。

           みなさん、いいお歳を!!

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ファウスト

2007年12月22日 00時54分02秒 | 読書記録
残された人生の時間がどんどん過ぎ去って行くのは、僕も今生まれたばかりの赤ちゃんと同じ条件であるはずだ。けれど、さすがこの歳になるとテレビを見て夢のように蕩尽してしまう時間が、気分転換の他は、もったいなくてできなくなってきた。あした死ぬかもわからない自分であるが、この急行列車は人生の4分3を通過し、終着駅まで残りは4分の1を切った実感を持っている。
そういう焦りのような気持ちもあるのだろう、若いとき何度か読もうとしてそのつど挫折した経験のある本を、今年は意識して読んだ。ハイデッカーの「存在と時間」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、ゲーテの「ファウスト」。
読み終えるためにそれぞれ一ヶ月以上かかってしまったが、後悔はない。


          【抄録】(第一部 P.119)

  ファウスト
君にいったじゃないか、快楽など念頭にないんだと。
私は目もくらむほどの体験に実をゆだねたいのだ…(略)
全人類に課せられたものを、
私は自分の内にある自我でもって味わおう、
自分の精神でもって最高最深のものを敢えてつかみ、
人類の幸福をも悲哀をもこの胸に積みかさね、
こうして自分の自我をば人類の自我までに拡大し、
結局は人類そのものと同じく私も破滅しようと思うのだ。

  メフィストーフェレス
何千年のあいだ、この堅い食べ物を
噛みしめてきた私のいうことをお聞きなさい。
産声をあげてから棺桶にはいるまで、
誰ひとりこの古いパン種を消化(こな)せたものはないんです。
私らのいうことをご信用なさい、この大きなご馳走は、
だた神というやつのために作ってあるんですよ。

 神が使わしたに違いない、メフィストーフェレスを憎みきれる人は少ないと思うが、この最後の怖ろしい一行は、ひょっとしたらゲーテの確信でもあったのではなかろうか?

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山折哲雄「『歌』の精神史」

2006年10月07日 23時40分52秒 | 読書記録
著者から読者へ(抜粋)
 いま、叙情が危ない。われわれのこころの世界が乾き上がり、砂漠化しているのではないか。叙情を受け容れる器が損傷し、水漏れをおこしているからではないか。
 叙情とは、万葉以来の生命のリズムのことだ。魂の躍動をうながし、日常の言葉を詩の形に結晶させる泉のことだ。それが枯渇し危機に瀕しているは、時代が平板な散文世界に埋没してしまっているからである。歌の調べが衰弱し、その固有のリズムを喪失しているからだ。
 いまこそ、「歌」の精神を取り戻すときではないか。

*   *

 おっしゃやる通りだ。短歌は知らないが、現代詩とは魂の抜け出た後の、ミイラの叫びである。かつて小野十三朗は批判精神を堅持するために「歌うな」といったが、われわれはもう「歌えない」のだ。
 詩のことはさておいて、しかし、現代が叙情の喪失の危機であるという時代認識は、むしろ「近代」の属性であって、近代から区別されるわれわれが生きている「モダン」の特性としては、叙情の喪失後をいかに生きるか?、新しい叙情の創出、にかかっているのではないか。
うまくは云えないけれど、そこまで来ていると僕は思う。山折さんは、伝統的詩歌と歌謡に底流する叙情の本質を、「生命の高揚感と無常観」に見ている。まさにその本質に対して、近代化の結果である人工的な現実(新しい自然)が、無効を宣言しているのではないか。
だから我々を育んできた叙情が無用ということではなくて、叙情を蘇生させるためには、因果律的ではないあたらしい感覚と認識の枠組みが必要だと感じる。
 文明の最後尾をほとんど落伍者のよにに歩いている、詩のわずかな可能性はそこにあるのだろう。皮肉ではなく、ミイラ君がんばれ!と言うべきだ。(まこと)

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若嶋眞吾著「もう一つの『知』」

2006年08月20日 20時21分19秒 | 読書記録
若嶋氏の著作の動機も、その論の展開の方向性も明確である。
コスモロジーとは、誰もが既に抱いている世界観・宇宙観であり、それは人生を幸せにするものでなくてはならない。
しかるに今日の社会と時代を覆う利己的な閉塞感は、科学主義的なコスモロジーから一方的に影響を受けた結果ではないか、ということが、この本の知的冒険旅行の出発点になっている。
我々が盲信してしまった「因果律」に対して「感応律」をアンチテーゼとして立てた若嶋氏の熱い論述は、今後我々の思想と文化と生活のために、必ず覚えられるべき卓見である。理解されにくい事を承知でさらに付け加えると、迷える時代の「核心」を正面からついたものである、ということだ。
 通読して実に読み応えのある本だった。座右においてパラパラめくり目にとまったところから、東西のコスモロジーについてトピックス的に楽み、知見を広めることも、間違った読み方ではないと思う。
コメント (2)
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栗原隆「ヘーゲル」

2006年07月26日 23時55分50秒 | 読書記録
ヘーゲルの弁証法に、自己実現の活路を見出そうとする姿勢で書かれたヘーゲル哲学の入門書である。哲学に不案内な僕が云うからかえって説得力があると思うのだが、総論的・教科書的なヘーゲルの入門書が新書版であるので、それを一冊読んでから、これを読んだ方がわかりやすいだろう。

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柴田翔「詩への道しるべ」

2006年07月07日 01時05分37秒 | 読書記録
☆「されど…ということにこだわって」

若い人や、詩とはあまり縁のない人への「詩の入門書」が近頃あまり発行されていなかったので、嬉しいことだ。
内容も基本的なことを押さえてあるので、「詩への道しるべ」として安心して勧められる。

柴田翔さんといえば、僕から上の世代ではやはり「されど我等が日々」である。
その「されど」という苦くて甘い過去への思いが、詩の入門者では場所違いというのであろうか、全く見受けられなかったことが、寂しい。
たしかに、戦争はない方が良いし、原爆は許せないし、家族はいいものだし、恋はすばらしいし…そういうことを詩で書いてもよいし、どんどん書いたらいい。しかし、ここに集められた詩篇とその解説が、80パーセント以上の人がそうだなというところの「良識」に乗っかったような、あまりにも教科書的なものばかりだと、僕には感じられたのだ。学生運動がさかんだった60年代から70年代はじめの時代に比べて、現在がそんなにのんきですまされる状況であろうか。
詩とは根本的に、されど…と、いう絶えざるプロテストであり、詩人とはこの世の何かと戦い続けていかねばならない宿命の人種だと思う。
詩人を自称するものたちよ、君は最後に幸せになればいいのではないか。
もちろん、以上は「されど我等が日々」という小説に、特別の思い入れのある人間の述懐だと思ってください。

本書からの抄録
☆その内容はどうであれ、一つのメッセージを読者に押しつける。それは詩の仕事ではないだろう。
詩はひとを自由にするもので、ひとを縛るものではない。(略)
だが、一つのあらかじめ確定した〈考え(思想)〉を、世界へ向けて発信するための〈宣伝塔〉には、詩はなるな――。(P、122)

思想を押しつけてはいけないし、自由を縛ってもいけないし、政治や宗教のの宣伝塔となってはいけない…と僕も常日頃言ってますが、けれど、考え・思想を詩で述べてはいけないと云うことでないだろう。
 思考停止に陥り、日常的な情緒に終始する、あるいは内容のない観念の羅列に逃げてしまう、現代詩の近頃の安易な傾向を応援するようで、誰もがうなづくこの種の言説には、注意が必要かも知れない。

☆結語。どこまでも詩は、「されど・されど」と言い寄ることではないでしょうか。
このレビューのように(尾崎)。

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吉本ばなな「ひな菊の人生」

2006年07月06日 23時52分10秒 | 読書記録
☆「世界に開かれることによって超える、不可避の悲劇について」

記憶にある限り、数年ぶりに読む小説だ。
つまり、この数年は新聞であろうが、小説であろうがエッセイであろうが、、
必要に迫られて読む詩論や思想書の他は、
散文アレルギーにかかってしまい、ほとんど読まなかった。
最後に読んだのは男女の小説家(一人は江國 香織 )がペアとなって書いた、「冷静と情熱のあいだに」?だったか、これがまた男女の機微がわからぬ僕にはいけなかったのだろう、自己欺瞞が文体になっているように思えたのだ。(もちろん、今読めばまた違う感想かも。)

しかし、これは文句なしによかった!
詩もそうだろうが、小説を読むと言うことは、実際のところ小説家を読み込んでしまうのだ。

決して通俗的ではない、また単なる想像力によるものではないところの「感受性」を、この作品と作者に感じることができた。
主人公「ひな菊」のお母さんは事故で突然亡くなる。母の死はひな菊にとって、「なんの理屈もなんの感傷も拒む理由なき死だった」。…と死の定義が綴られた後、以下の文章が続く。(P70)

☆なにかを徹底的に受け容れようとすることは、この世で起こっていることに関して普通の百倍くらい敏感になることだった。決して鈍くなって乗り越えようということではなかったように思う。

苦労や悲劇、挫折というものは、その時人を無感覚にさせ、逃避に追いやったあげく痛みに対して鈍感で凡庸な人格を作り上げることがある。しかし、不可避の悲劇に対して、ひな菊の場合よように、世界に対して開かれた「乗り超え方」もありうること、それを信じうる物語にあっている。題材は暗いが、素直な気持ちで綴られているので、かえってすがすがしい読後感であった。

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斉藤啓一「ブーバーに学ぶ」

2006年07月05日 00時50分23秒 | 読書記録
もう三十数年も前の話になるが、夏休みに三ノ宮で偶然知り合った女の子が、ドイツ語のクラスでブーバーの「我と汝」をテキストにして勉強していた。
日本語訳を読んでも、なにかいてあるのかさっぱりわからへん、と言っていた。
そして今思い出したけれど、彼女が信州へ旅行中、大阪には台風が来て停電になり、ロウソクの明かりで日本語訳の「我と汝」を読んだ。さっぱりわからなかった。人生経験からか、今なら少しはわかるが、それにしても時代も僕も、ロマンチックやったなあ。
…そんなことはどうでも良いことだが、この乾ききった世の中に(だからこそ、ということもできるが)、ブーバーがなお読み継がれていることが、なにか痛々しい。
本著は入門者用に、ブーバーの対話の哲学をわかりやすく説明してある。岩波からも「我と汝」が文庫として刊行されているので、興味ある方は平行して読まれることを勧めます。

抄録(P188)
☆感動は経験ではなく魂の共鳴
 ――それならば、人は〈汝〉について何を経験するか。
 ――何も経験しない。なぜなら、それは経験されるものではないから。
 ――それならば〈汝〉について何をしるか。
 ――まさにすべてを知る。なぜなら、〈汝〉について部分的なものは何ひとつ知 られてないのであるから……。(「我と汝」)
芸術作品そのものは、〈それ〉でありモノであって、経験の対象である。けれども、そんな作品から蘇った〈汝〉を、私たちは「経験」しているのではない。「感動」しているのだ。
感動は、経験ではない。経験は「経験するもの」と「経験されるもの」に分かれるが、感動は〈汝〉と〈我〉がひとつに共鳴することである。(略)
ブーバーはいう。「経験とは〈汝〉がら遠ざかることである」

☆「人間が神と出会うのは、神と恍惚にはいるためではない。この世界の意味を確証するためである。すべての啓示は、神への帰還命令であると同時に、神からの派遣命令である」(「我と汝」)

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熊野純彦「レヴィナス入門」

2006年06月29日 13時15分38秒 | 読書記録
レヴィナスという哲学者はたいへん陰気な哲学者である。
その哲学にふさわしい陰気な時代が来たから、
読んでいるとかえってその場所が
ポット明るくなるというものである。

入門書となっているが、なかなか。
近頃安直な紹介本が多きけれど、これは本気で読者に伝えようとしている。
ひつこく繰り返すレヴィナスと自分の言葉で、迫ってくるものがあった。

抄録。(レヴィナス「存在するとはべつのしかたて」のまた引き)

☆傷つく身体(P180)
身体の「表面における感受性の直接性が、つまりそのつど世界に直―接し、い  わば逃げ場をもたない感受性が、その「傷つきやすさ」において、すべての能動性、能動的な指向性よりも先に、つまり意識の働きのてまえで傷を負ってしまうからである。(略)
 強いていうならば、感受性はみずから傷を負うこと、じぶんが傷つくことではじめて、対象を感覚的に把握する

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