「恋人たち」
若い恋人たちは
まだ気づいていない
寄り添う
ということが孤独の
究極のカタチ
であることを
彼らは人よりも
羽がはえたばかりの
小鳥に似ている
だから心配だ
摩天楼の窓を突き破って
羽ばたいていかないか
ほんとうの空へ
若い恋人たちは
まだ気づいていない
寄り添う
ということが孤独の
究極のカタチ
であることを
彼らは人よりも
羽がはえたばかりの
小鳥に似ている
だから心配だ
摩天楼の窓を突き破って
羽ばたいていかないか
ほんとうの空へ
人は
黙るとなおいっそう
煮魚に似た
陰鬱な顔となるのであろうか
わたくし
というものが
ひとつの牢屋であり
ひとつの刑の執行であるからだ
わたくし
と言うことができるだけで
人は暗いのだ
いい声で囀る鳥よりも
ヒヒーんと嘶く馬よりも
ワンと吠える犬よりも
深海の黙りこくった
アンコウよりも
わたくしと言うだけで
四方暗くなるのだ
黙るとなおいっそう
煮魚に似た
陰鬱な顔となるのであろうか
わたくし
というものが
ひとつの牢屋であり
ひとつの刑の執行であるからだ
わたくし
と言うことができるだけで
人は暗いのだ
いい声で囀る鳥よりも
ヒヒーんと嘶く馬よりも
ワンと吠える犬よりも
深海の黙りこくった
アンコウよりも
わたくしと言うだけで
四方暗くなるのだ
わたしは
とにもかくにも
わたしを
駆けて駆けて
生きてきたのだと思う
そしてついについに
ひとり
この男なのである
男よ
ああ男よ
そして
この男は
わたしを
泳ぐように
ひとかき
死んでゆかねばならない
男よ
ああ鏡の中の
立ち尽くす男よ
僕は君を
君は僕を
何のご縁で!
とにもかくにも
わたしを
駆けて駆けて
生きてきたのだと思う
そしてついについに
ひとり
この男なのである
男よ
ああ男よ
そして
この男は
わたしを
泳ぐように
ひとかき
死んでゆかねばならない
男よ
ああ鏡の中の
立ち尽くす男よ
僕は君を
君は僕を
何のご縁で!
「日没」
彼女は
一緒に死んでよ
とは望まない
一緒に住んでよ
とも望まない
渚の風に乗せて
まだ還るときではありません
とだけ手紙をよこす
遠い昔だった
確かに彼女の家から
われわれは来たのである
しかし一人として
生きているうちに還ったものはいない
日暮れるたびに
海は女として横たわり
港では船乗りたちが
ピストルの弾を込める
彼女は
一緒に死んでよ
とは望まない
一緒に住んでよ
とも望まない
渚の風に乗せて
まだ還るときではありません
とだけ手紙をよこす
遠い昔だった
確かに彼女の家から
われわれは来たのである
しかし一人として
生きているうちに還ったものはいない
日暮れるたびに
海は女として横たわり
港では船乗りたちが
ピストルの弾を込める
息をしている
彼を石だと思ってみろ
木だと思ってみろ
石や木が息をしだしたのだから
たいしたものだ
それでも
いつかは息をやめるだろう
それまで
木村や尾崎や亀田は
たいしたものだ
『ドゥイノ哀歌』は『オルフェウスに寄せるソネット』と並ぶリルケ(1875-1926)畢生の大作である。<ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使がはるかの高みからそれを聞こうぞ?>と書き始められた調べの高いこの悲歌は、全10篇の完成に実に10年もの歳月を要した。(表紙より)
以下第九の悲歌より。
それゆえ(死の国へ)たずさえてゆくのは、苦痛や悲しみだ。とりわけ重くなった体験だ、愛のながい経過だ、――つまりは
言葉にいえぬものばかりだ。しかし、さらにのちに
星々のあいだに達したら、それらのものも何になろう、星々こそは、よりすぐれて言葉には いえぬものなのだ。
とすればこうだ。登山者は山上の懸崖(けんがい)から
言葉にはなりえぬ一握りの土を谷間へもちかえりはしない、
からがもちかえるのは、獲得した純粋な一語、すなわち黄に碧(あお)に咲く
りんどうだ。だから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺、果樹、窓――と、
もしくはせいぜい、円柱、塔と……。
()の中は尾崎の注。
ドゥイノ悲歌の核心であると僕が感じた部分を取り出してみました。リルケの大のファンというほどのこともないのですが、たぶんこの直観に間違いはないと思います。
この世界のほとんどは、言葉にならないものによって成り立っています。それを一番知っている人間が「詩人」です。だからこそ、彼は一生を費やして「りんどう」という純粋な一言を獲得し、われわれの生みの母である星々のところへ持ち帰ろうとするのでしょう。
初めて読んですんなり分かるということはないと思います。リルケの本文のあとに、本文よりも長くて親切な手塚氏による注があり、本文→注→また本文に戻って読むといいかもしれません。
以下第九の悲歌より。
それゆえ(死の国へ)たずさえてゆくのは、苦痛や悲しみだ。とりわけ重くなった体験だ、愛のながい経過だ、――つまりは
言葉にいえぬものばかりだ。しかし、さらにのちに
星々のあいだに達したら、それらのものも何になろう、星々こそは、よりすぐれて言葉には いえぬものなのだ。
とすればこうだ。登山者は山上の懸崖(けんがい)から
言葉にはなりえぬ一握りの土を谷間へもちかえりはしない、
からがもちかえるのは、獲得した純粋な一語、すなわち黄に碧(あお)に咲く
りんどうだ。だから、たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、
橋、泉、門、壺、果樹、窓――と、
もしくはせいぜい、円柱、塔と……。
()の中は尾崎の注。
ドゥイノ悲歌の核心であると僕が感じた部分を取り出してみました。リルケの大のファンというほどのこともないのですが、たぶんこの直観に間違いはないと思います。
この世界のほとんどは、言葉にならないものによって成り立っています。それを一番知っている人間が「詩人」です。だからこそ、彼は一生を費やして「りんどう」という純粋な一言を獲得し、われわれの生みの母である星々のところへ持ち帰ろうとするのでしょう。
初めて読んですんなり分かるということはないと思います。リルケの本文のあとに、本文よりも長くて親切な手塚氏による注があり、本文→注→また本文に戻って読むといいかもしれません。