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尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

不思議の森へあなたを訪ねて下さい。
「人生は正しいのです、どんな場合にも」(リルケ)
2005.10/22開設

尾崎まこと童話集「千年夢見る木」、好評発売中!

2010年07月05日 23時25分04秒 | みなさんへ・その他
孤独だからこそ、捨てきれぬ「あなた」への思い。
痛い現実だからこそ、見果てぬ昨日の夢、今日の夢、明日の夢。
しかし…

かつてG・ユングは言った。
木はいわば人間の変容した姿である、と。(『哲学の木』)
尾崎の『千年夢見る木』は、人間の思いを擬人化した木に託したのではない。
「人間の木」というシュールによってしか表現できないところの、人間の現実を言い当てたのである。
人間の現実を描くために、詩でもなく小説でもなく、
本来子供への語りであったところの「童話」というフィールドでの言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)を選ぶしかなかったというところに、尾崎の、
いやわれわれの置かれた言語空間の悲劇性を感じるのは、私だけであろうか。

      (ダスキン・ホフマンさんの筆者への感想より)


これは子どもも大人も、面白いぞ!!
子どもの方がよくわかるみたい!!


注文は全、国有名無名の本屋さん、または「アマゾン」、楽天さんなどのネット書店か、
出版元「竹林館」まで、よろしくお願いします。

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イリヤの紹介

2008年10月14日 00時34分41秒 | みなさんへ・その他
 詩の時代がやってきた―美味しい詩〈イリヤ〉        尾崎まこと

  私どものイリヤは発行からまだ二年に満たず、またメンバーも左子真由美・佐
古祐二・尾崎まことの三名です。いわば、赤ん坊のように小さな詩誌に、この場
を与えて下さった読者の皆様に感謝いたします。
 先輩にあたるたくさんの詩誌にまぎれることなく、イリヤにささやかな存在理由があるとすれば、3ミリほどの厚みの印刷物が、あたかも感受性を持っているような装いと、何よりも自分たちの詩に期する「鮮度」のようなものではないかと思います。創刊号の左子真由美が寄せた巻頭詩に、イリヤの方向性がよく出ているので、「あなたへ」をふたたび引用することが、一番美味しい紹介になるかも知れません。
  あなたへ//すっぱい詩/辛い詩/甘い詩/苦い詩を
  むしゃくしゃ食べられる詩/のどの渇く詩/美味しい詩を!
  ささやかですが/今/あるということの不思議から
  かけがいのないあなたへおくる詩を/始めてみます
  イリヤ が
  そのつどわたしたちを/裸で生まれたばかりのその場所へと
  連れもどしてくれることを願い
 …では二〇〇九年新春発行予定の、イリヤ最新号をぜひお手元に。

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モディリアーニのスフィンクス

2008年09月17日 10時48分52秒 | みなさんへ・その他
「モディリアーニのスフィンクスの前で」

 夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって中之島の国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を観てきた。平日にもかかわらず、鑑賞のためには行列にまぎれて粛々と進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスに支持されたものだろう。
 さて、その混沌として渦巻いている感想を、無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は極めて今日的な「スフィンクス」ではないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思う。
 テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足と姿を変えるものはなにか?」という問いである。「それは人間である」と正解した人物がかのオイィデプスであった。モディリアーニのモダンなスフィンクスは、そんな一般的な問いで一般的な答えをわれわれに期待するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君こそ自分を誰だと云うのだ?」という一歩進んだ問いでありる。実は古代スフィンクスの謎々の奥に潜んでいる、真実の問いはこれであり、オイディプスは自分の生涯をもって答えなければならなかったのだ。。
 さてモダン・スフィンクスのこの問いに正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。 スフィンクスに僕なりに答えるため、自分の拙い詩をはさませていただく。


 断言  


死ぬから愛するのだ
ということは本当だ

断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ

堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ

アダムがイブのために
イブがアダムのために


 古代ローマより伝わる格言にラテン語で「メメント‐モリ(memento mori)」、つまり死を忘れるなというものがある。1884年にイタリヤで生まれたアメデオ・モディリアーニは、少年の頃から肺をわずらい、成人してからは過度の飲酒や放蕩がたたり、1920年肺結核をこじらせ35才の若さで死んだ。体と精神に死を抱擁していたとも形容できるモジリアーニの生にとっては、メメント‐モリなど全く必要のない警告であった。そして、彼のミューズとも呼ぶべき最愛の妻、ジャンヌは、その二日後に彼の後を追うのである。 
 彼は風景画や静物画をほとんど描かなかったが、その肖像画は生きている人のポートレイトというよりも、静物画の静謐な雰囲気とモノとしての落ち着きがある。死を抱擁しているのは彼の体と精神だけではない。最も彼らしい作品は、瞳が空のように塗りつぶされている肖像画に示されている。
 一般的に肖像画・肖像写真というもののの特徴は、我々鑑賞者を見返すその「まなざし」にある。写真にしろ絵画にしろ、額縁のなかにある眼差しの追跡を感じたことのない人はみしろ少ないだだろう。肖像画の原型は幼い頃から夢中になり、今なお毎朝お世話になっている自己の「鏡像」である。肖像画という特殊な鏡像においては、自分の本来の眼差しと、他者に移入され屈曲し戻ってきた自分の眼差しが交わるのである。
 モディリアーニの描く瞳の消された眼差しと、我々は永遠にコンタクトできない。我々の眼差しは、彼あるいは彼女のくり抜かれたような目を通過するが、つきあたる壁はなので、その空間は無限の奥行きである。モディリアーニの異才が的確にとらえたジャンヌやベアトリス、キスリング、スーティン、ズボロフスキー等の個性とは、実は「無」のはめた仮面、もしくは「無」の容器だと云える。もちろん無は死の別名であろう。
 モジリアーニの瞳のない目は、鏡の破れ目である。他者だと思い接している者が、実は自分の都合のよい他者、すなわち自己像であることはわれわれの常である。その鏡にモジリアーニは穴を穿ち個性の中心にある無を露出させた。。描かれている彼等のかもしだす孤独には、抒情的であるよりも、否応のない即物性がある。しかしそのことによって、自己の鏡像に酔うことなく死すべきものとしての他者に出会う可能性を得るのである。瞳の穴は失楽の印でもあるが、林檎を食べたアダムとイブのように、エデンを追放された時、はじめて愛の可能性を我々は夢見はじめたのである。

 ジャンヌの死は、モディリアーニの死のため、彼女が世をはかなんだせいではないだろう。もう一度モディリアーニとあくまでも生きようとしたのである。そして彼の残した絵にもし格言が一つあるならば、愛を忘れるな、ということではないだろうか。…と、僕は美術館に現れたスフィンクスを前にして、ずいぶん大昔、林檎をかじった記憶のある僕は答えたのである。







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モディリアーニ(その1)

2008年09月16日 01時55分11秒 | みなさんへ・その他
モディリアーニ(その1)

    

「スフィンクスの前に立つ」

 夏の盛りが過ぎた頃、仕事の合間をぬって国立国際美術館で開催されているモディリアーニ展を見てきた。平日だったにもかかわらず、行列を組みながら進まねばならなかった。日本人のモディリアーニ好きは、ジャンヌとの悲劇的な恋物語とともに、線描による繊細な曲線にかすかなリズムと調和を感じる日本画的センスによるものだろう。
 さて、その混沌とした感想を無理にひと言で述べるならば、彼の描いた人物像は今日的な「スフィンクス」はないか、ということである。モディリアーニに関心があるのにもかかわらず、僕が何を言っているかまるで分からない方は、ぜひもう一度、ズボロフスキーやジャンヌの前に立っていただきたい、と思うのである。
 テバイの丘に現れた頭が処女で胴が獅子のスフィンクスは、人々に謎々を与え答えられなければ食ってしまった。「終生同じ名で呼ばれながら、四つ足、二つ足、三つ足、四つ足と姿を変えるものはなにか?」という謎々である。「それは人間だ」と正解したのがオイデプスであった。モディリアーニのスフィンクスはそんな一般的な問いを発するのではない。「君は私を前にして、私を誰だと思うのか? そしてそう答える君は誰だと云うのだ?」…正解しなければ食われてしまうことはないだろうが、その代わりモディリアーニの虜になることは確かなようだ。

「近代の果ての孤独ということ」
 彼の描く人物は、それぞれ非常に個性的であり、おそらくそれが故の優しさと憂愁を我々見る物に与えてくれる。その感覚とは、現代美術としては稀少となってしまったロマンティズムある。とはいうものの、そのの根源には、非叙情的なる存在論的な構造があるだろう。描こうとする対象が個性的だといったが、正確にはいやおうなしにそこにある「モノ」の個別性と言ってよいだろう。それがわれわれの受け取る憂愁というものの正体である。、現代的なロマンティズムというものは、その意味で人間的というよりも物質的である。モジリアーニ肖像が語る孤独は、ものの哀れというような日本人の感傷に収斂できない、近代という営みの果てに見出した自己像、すなわち人間をも含む「自然」をコントロールし支配しようとする人間が陥った孤独である…そのあたりを探ってみたい。

 
「モノと仮面」
 彼はもちろん二次元的な画布上に、彫像を制作したといえる。そしてそれは仮面の本質を有した彫像である。彼の描こうとした人間の本質は、ああでもありこうでもあり得、つまるところ何でもあり得、何でもないところの「イメージ」ではなくむしろ人間にあるモノの質感である。しかしそれは「肉体」ということでもない。肉体というのはむしろ自由の根拠でもある。人間の実体を否応のない「モノ」としてとらえたのだ。そしてそのモノには瞳を来る抜かれた「穴」がある。その穴故にモジリアーニの肖像画には穴が空いて、反ポートレイトとも、あるいは最後のポートレイトとも云える位置に置かれている。彼以後、少なくとも画布の上では、人間は抽象化され、単なるイメージか記号、模様の類に変容されたのだ。写真、映画など映像の時代にはいり画のポートレイトが商業的になりたたなった。また絵画の芸術における存在理由として、リアリズムでは映像にとうてい太刀打ちできず、想像力もしくは無意識という場所に重心を移したのである。

 「モナリザ的仮面の本質」
 ダビンチは中性から近代へ、人間中心主義を切り開いた、無神論者であった。レオナルドダビンチのモナリザは人間的が仮面であることの告白である。多くの人は神秘的だと感受する、彼女の微笑みに邪悪さ(語調が強すぎれば「陰険」と言い換えてください)さを読み取ることはそれほど難しくはないだろう。ただ、鑑賞者が自分の生きている邪悪さに気がつきたくないために、世間に流布されている「モナリザの微笑み=神秘的」という共同のコードを利用し、その正直な直感を打消すのだ。
 モナリザは近代的、人間の鏡像であり仮面である。その意味は仮面の背後に意志と欲望の主体である自我が控えていて、その眼差しの元、浮かべる表情の薄笑いとは、親密性という笑いの本質を否定するところの、敵意、支配欲、相手を表情にコントロールしようとする隠された意志である。モナリザファンは、この意見に容易に同意しないだろうが、同じ画家による「洗礼者ヨハネ」の両性具有の不気味な笑いを思い出していただきたい。モナリザが実はダビンチの自己像であるだとか、モナリザは未亡人でその笑いは哀しみを隠しているとか、その右半分の顔は女であり、左の顔半分は男であるというような、俗説がある。要するに神から離れることのできた画家は、ニーチェが見抜いたように、人間の持つ両面性である善と悪を躊躇することなく描けた。また彼に続く神から離れた人間達は人生を躊躇なく善と悪の全体性で生きうるのだ。その全体性とはひと言で言うと個人の根拠としての隠された「欲望」と名付けてよいだろう。そして欲望の対象は、人ではなくあくまでも間としての自然である。本質的に私の他に外部としての他者をもたないのである。人間一般の問いに果敢に答えることの出来たオイディプスは、他者としての「汝自身」を知らない自信満々の男であった。父を殺し母と結婚した自分の運命を知ったとき、自分から進んで文字通りの盲目となる。それまで、彼は父や母や自分と出会い損ねていたのである。
 さて、その意味でモナリザもダビンチも出会いそこねの途上にある。

 「モディリアーニの画は、仮面的な彫像である」

 この度の展覧会の企画者であるマルク・レステリーニ氏は、モディリアーニの人物像がプリミティヴィズム(原始主義)に根ざしたものだと断言している。他の芸術家達のプリミティヴィズムの影響が一過性だったのに比べ、彼のそれは基本原として用いたと述べる。なるほど、冒頭で彼の画を、スフィンクスになぞらえたた僕の主観は、スフィンクスがアフリカの工芸品や彫像でないにしろ、まったく根拠のないことでもなさそうだ。 画布上のに次元に、彼は三次元空間の仮面的な彫像を造ったのだといえる。
 同時代のピカソのキュービズムが多視点からの描写を二次元上に再構成を行った。いわば立体的な紙のサイコロを伸ばして平面にしたものである。定点にいながらにして、すべての視点からの対象の眺望を我がものにする、究極の見る欲望である。効果としては徹底的な二次元性であり鑑賞者は一歩も動けない。画の裏にまわることが可能性として許されていない。これに対し、モジリアーニの画においてわれわれは可能性としての他視点を得ている。画の後ろからみたり、近づいて触ったり、腕をまわして抱くことも、可能性として許されている。
 彼の画が彫像的であることの根拠を、絵画技術的に述べることは素人の僕にはできない。ただ彼はもともと彫刻家を目指していて、健康上の理由からそれを断念したことを指摘しておこう。


  「創世記」

 さて閑話休題、僕の拙い詩をはさむ。



 断言  


死ぬから愛するのだ
ということは本当だ

断言できる
アダムがイブを
イブがアダムを
心底愛しく思ったのは
林檎を食べて
連れの裸と
死を見てからだ

堕落
ということがもし
あるとしたら
それでも
死ねないことだ

アダムがイブのために
イブがアダムのために



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5/18「風」朗読会・のお知らせ

2008年04月29日 23時59分00秒 | みなさんへ・その他

楽しい刺激的な朗読会にしたいと思います。
ぼくの詩のスタートも、今から四年ほど前、飛び入りで「風の会」へ参加したことからはじまりました。
詩(人生)に今必要なことは、自分であることの勇気と希望、だけです。
その他のことを言うことは、現在、インチキだと思います。

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産経・朝の詩に、尾崎の「ポスト」掲載

2007年11月30日 23時44分53秒 | みなさんへ・その他


選者はもちろん新川和江さんです。
月間賞まで頂いた、今年2/15掲載の「まんなか」に続いての掲載です。
最近、ほめられることのほとんどなかった尾崎の詩だったので素直に嬉しいです。
ロマンチック過ぎはしないかと、今度の詩集には載せませんでした。
ちょっぴり痛いけれど、本人も口ずさむことのあるかわいい詩です。
再録します。


「ポスト」


この秋の
深い空のどこかに
赤い切り傷のような
ポストの入り口は
隠されていないか

カポン!

ふいに
明るい音がして
あなたからの
なつかしい便りが
僕のこころに
降りてくるのだ



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開設! 「尾崎まこと★フォトギャラりー」

2007年11月12日 22時45分38秒 | みなさんへ・その他
先週末、詩集を印刷会社にまわして、燃え尽き症候群でもないですが、
57年生きてきて、やっぱりというか、とうとうというか、
自分が「からっぽ」に感じます。
そんな男になりたくないと言いながら、
実はせいいっぱい虚勢をはってきたのでしょうね、
犬とか木とか筆箱がえらく思えます。
…というところで、尾崎まことのフォトギャラリーを作り始めました。
(なんのこっちゃ?)

まだ写真アップの要領が得ず、落ち着きませんが、
さすが詩のルネサンス、変わり者の尾崎や!
というような一期一会の写真を目指しますね。

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詩集「カメラ・オブスキュラ」脱稿

2007年11月05日 00時08分47秒 | みなさんへ・その他
昨日、脱稿と同時に校了いたしました。
充実感のある反面、
数年をかけて改稿に改稿を重ねてきた作品がほとんどなので、
もうあともどりできないとなると、
まるで自分のものでなくなるようで、寂しいです。
…そうですね出版されれば、自分のものでなく、読み手のものになるのは間違いないです。
もっと寂しいのは、その読み手が「詩」の場合、ほとんど期待できない、ということでしょうね。
それでも出版するのは、読まれるに値するものを書いているプライドがあるからに違いなく、僕も例外ではないです。
これが自分の小説とか写真集だったりしたら、そうでもないのでしょうが、
本屋さんを回ったり、知人に声をかけて、
「50を過ぎてから詩をはじめました。
で、僕の詩集、買ってくれませんか?」というのは
ちょっと勇気がいります。
(そんな根性でどうする!)
ということで、知人も友達もあまりいない僕は、
本ができたら、せいいっぱい本屋さん、回りますね。

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第一詩集「カメラオブスキュラ」、編集開始

2007年10月12日 01時10分31秒 | みなさんへ・その他
あなたへ。

全編で52編の詩が出そろいました。
詩集としては普通の詩集の倍ほどですが
もし今死ぬとして、残したい詩の数からそうなりました。
おおよその順番は左子真由美さんの指導によって決めました。

今日、まず読まれることも売れることもないだろう詩集を出すことは
勇気のいることだな、と我が身を通して思います。
出しただけで自己満足している詩人は一人もいないでしょう。
詩を書くことを、投瓶通信(沈没する船から手紙を瓶につめて海に放つ)
にたとえた詩人がいましたが、
誰か一人に届くことを切に信じているわけです。
その誰かというのは、あなた、そう究極の「あなた」です。

どれほど僕が臆病であることか…

では、お休みなさい。
コメント (2)
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第16回日本歌曲コンクール・声楽部門本選

2007年09月16日 11時42分33秒 | みなさんへ・その他
2007年9月8日に東京文化会館で「第16回日本歌曲コンクール・声楽部門本選」と各部門の表彰式が行われ、行ってきました。
すでに作曲部門では尾崎の詩「雪の音」に作曲された、栗原邦子さん、大橋美智子さん、渡辺なつ実さんの3名が入賞され、課題曲の一つとなっておりました。関西・関東予選を通過され声楽部門の本選にエントリーされた方々のうち次の13名の方々が、彼女たちの作曲した「雪の音」を選んで歌われました。みなさんに感謝いたします。

有山美恵子さん、石岡美典子さん、大畑理博さん、加藤千春さん、神野英世さん、
金城真希さん、坂絵梨奈さん、小山操さん、島田祐子さん、諏訪部崇世さん、仙藤恵子さん、長江希代子さん、中谷淑子さん、
(声楽部門通過者、五十音順)

声楽部門本選の結果は次のとおりでした。
(1は課題曲、2は自由曲:敬称略)


     演奏曲     作詩者    作曲者    入賞者氏名

第1位 1.雪の音    尾崎まこと  栗原邦子   仙藤恵子 

    2.つるぎの歌  鶴岡千代子  小林秀雄

第2位 1.雪の音    尾崎まこと  栗原邦子   坂絵梨奈

    2.蕎麦の花   堀内幸枝   小林秀雄
 
第3位  1.雪の音   尾崎まこと  渡辺なつ実  諏訪部崇世

     2.雪燃え   鶴岡千代子  玉井 明
 
第3位  1.雪の音   尾崎まこと  栗原邦子   神野英世

     2.蕎麦の花  堀内幸枝   小林秀雄


詩を一生の仕事として選んだときから、
こんな晴れがましい舞台とは無縁だと思っていました。
屈曲した詩も書く自分ですが、みなさんから頂いたご褒美のような、
素直に感動していた一日でした。
 



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日本歌曲コンクール課題曲「雪の音」

2007年08月28日 23時53分32秒 | みなさんへ・その他

第16回 日本歌曲コンクール
声楽部門本選会(公開演奏会形式)
が9/8(土)下記の要領で行われ、
予選を勝ち抜いた方々(14名)によって、三人の作曲家の方に作曲していただいた尾崎の「雪の音」も、それぞれ課題曲の一つとして歌われる予定です。
東京近辺の方で歌曲に興味のある方は、よければ足を運んでくださいね。

    (記)

日時 2007年9月8日(土)
開演(開場)時間 13時30分開演(13時開場)
表彰式 18時頃予定
会場 東京文化会館小ホール

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「月間賞」と「大賞」受賞のお知らせ

2007年03月19日 22時40分52秒 | みなさんへ・その他
昨日は日曜でしたが、
先月の15日産経新聞に掲載されました詩「まんなか」が、二月度の『月間賞』に選ばれ、選者の新川和江さんの言葉と共にふたたび掲載されました。
もちろん賞を頂いたりすることは光栄です。
この詩を新聞で読まれた女性の方が、自分の体験と重ねて涙ぐまれたと、
人づてに聞いて、もっと嬉しかったです。

それから、日本文学館主宰の「五行歌でつづる『思い出の歌』コンクールで、大賞を受賞したとのお知らせを頂きました。(応募した作品の10編はこの下に掲載)

 もし僕の詩に少しでも新しいところがあるとしたら、
「詩の仲間」ではなく「人間の仲間」としてのあなたにまっすぐ訴えようとしていることだと思います。
応援していただいているみなさん、ほんとうにありがとうございます。
 ほんとうのところ、
自分がなんのために書いているのかは分かりません。
しかし、あなたがいないと全く、
書く気になれないのは確かです。

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詩集「カメラオブスキュラ☆Ⅰ☆」

2006年07月02日 10時10分08秒 | みなさんへ・その他
僕のウエッブ上の第1詩集ができました。
(「鳩よ」の企画よりも先にできあがりました。)
リンクからもいけますが、アドアレスは次のとおりです。
http://www.denpan.org/book/DP-3e70-7ec3-1/index.html

「デンパンブックス」というサイトは
無料で比較的簡単に縦書きの詩集や散文集がウエッブ上に作れるので、
横書きのブログであきたらない方に、特におすすめします。
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朗読用特集

2005年12月15日 17時30分54秒 | みなさんへ・その他
 「裏庭」

僕の裏庭は
眼の後ろに広がっている
まばゆい海だ

海をこぼさないよう
顔を銀の皿にし
片手に乗せて
ボーイのように
移動する


 「小熊座」

僕のなかの
毛皮を着た人は
冬の星に関する発見に
耳をピンと立て
ずきんを持ちあげ
息を白くして言います

まばたきしているのは
光ではなくてって
むしろ闇です


 「どろの舟」

夜が明けても
沈まないで
がんばっている
泥の舟を
悲しむ
乗せている
タヌキを悲しむ

絵本を読んでから
ずっと


「浜辺」

昼も夜も
海は地球を洗っている

四十億年洗っても
落ちなかったものが
陽に焼けて
飴湯を飲んで
夕方
その子供の手と
長い影をひいて
帰っていった


「笑うんか?」

冬の空のような用事のなさに
君だって電話したことがあるだろう
用事のない自分の
携帯番号に

そんな
自分が出たらどうするんだ
笑うんか?
キスするんか?
泣いてしまうんか? 


 「どうどう」

私はテレビや友達が
決して言わないだろう
ほんとうのことを
あなたの心の黒板に
スケッチします

夢とか愛とかとても大切です
しかしもっと大切なことを
つまり、夢など愛などなくても
どうどう生きていくのですよ

お猿だった大昔からほんの少し前まで
夢など愛などどこにもなくて
食べていたのは
そんな言葉ではなくて
野ねずみや芋を食って生きてきたのです

けっこう仲良く笑っていましたのに
おれの夢だのお前の愛だの
やかましく言いだすようになって
ご覧なさい
人と人とが共食いを始めた
じゃあないですか

言葉など食えなくても
恥ずかしくはありません
自分より弱い人を食うほうが恥ずかしい
芋だけ食って
音の鳴るおならをして
みんなを笑わせて
元気にお暮らしください

黒板を消す前にもう一つ
そんなあなたは
とても優しいですから
夢とか愛とか希望とか
どうどう生きている
あなたへ
ほんのおまけです






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新メールアドレス

2005年12月05日 02時39分01秒 | みなさんへ・その他
AOLのメールアドレスは
接続方法の変更に従って、近日中に解約の予定で
新しいメールはこちらのgooを利用させていただくつもりです。

ozakimakoto@mail.goo.ne.jp

僕のネット歴に相当する、五年近く使っていたメルセデスのアドレスは名残惜しいのですが、筆名そのままの新アドレスも、よろしくお願いします。

コメント (2)
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