尾崎まことの詩と写真★「ことばと光と影と」

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2005.10/22開設

「はじめての宗教論」 右巻・佐藤優著

2010年03月05日 00時43分52秒 | 読書記録
宗教の特賞は、「見える世界」と「見えない世界」というふたつの世界を結び付けるところに特徴がある。近代(モダン)とは、「見えない世界」を捨象して「見える世界」を中心的に扱うことによって成立している。(P.10)

現代人は「見えない世界」を軽視し「見える世界」に意識を集中しているのは、実は時代の認識のありかたに制約されているからだ。つまり数値化は不可能でカネへの換算ができないもの、例えば慈しみとか、思いやりとか、愛情とか、友情とかが分からなくなってしまう。(P.16)

近代すなわち世俗化の時代とは、ヒューマニズムの時代でした。要するに、超越的な神ではなくて人間が中心になる現象です。
もうひとつ、近代とは「ヨーロッパ」が肥大した時代です。(P19)

ヒューマニズムを起点とすると、死に伴う超越性の問題が消えてしまう。
超越性を無理やり消し去ろうとすると、超越性の代理物が人の内面に入り込んでくる。それが、近代以降、ナショナリズムが宗教に替わる超越的な力をもった理由である。(P.24)

民主党が総選挙で勝利した、2009年8月30日の意味。
この日をもって日本人ははじめて東西冷戦構造の終わりに、もっと言うと、近代の終わり(つまり近代の完成でもある)に直面したということである。(P.58)

国体とは国家の原理である。1945年9月、マッカーサーが昭和天皇と会見した時、日本の国体は変更された。この会見によって、象徴天皇制への道筋ができあがり、アメリカの意にそうような形で、国体が変更された。日米安保条約が戦後の国体の根幹となった。今回日本がアメリカとの関係を再検討しようとしているのは、日本が生き残るためにアメリカとの関係の調整が必要だ、ということになる。

神学は、救済のためにある。基本的に悩める人のための学問である。まったく幸福で、死をも恐れない人には不要である。(P.68)

キリスト教にとっての啓示とは、人間の実存の外、すなわち外部から突然やってくるのもだ。近代という画期によって、キリスト教は外部性という前提をやがて失い、直観と感情の世界、自己完結した内面の世界にたどりついた。これによってプロテスタント神学者フリードリッヒ・ゴーガルテンが言うところの「禍なる転化」が起きた。(P.160)

神の似姿として造られたところからくる、人間の自由意思によって、人間は必ず悪いことをする、これがプロテスタンティズムの人間観の根本だ。
神と人間の間のすべてのことはイエス・キリストを通じてのみ行われる。これがプロテスタント神学の考え方です。(P.190)

すべてのキリスト教は、人間は原罪にまみれており、この世界は苦であり、悪が存在すると考える。
神が人になる、ということがキリスト教神学における「受肉論」である。(P.191)

仏教が救済に関して見事なドクトリンを展開しているから、救済に関して相当掘り下げた考えを展開しなければ、誰もキリスト教には帰依しないということだ。

人間は神学を研究すると、必ず変容してくる。テキストを読むことは、テキストによって自分が読まれていくことである。(最近では、マクグラスの教科書がバランスのとれた優れたテクストである)

信仰とはすぐれて倫理的な問題である。
受肉論がキリスト教の考えの大きな特徴である。「見えない世界」と「見える世界」をつなぐ回路が受肉ということになる。

道徳とは善悪についての一般基準。これに対して倫理とは、特定の人が個別具体的な状況でとる決断のこと。

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