おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

注意すると刺されて死ぬ。

2004-10-19 10:28:53 | 我思う、故に書くなりよ。
コンビニでDQNに立ち読みを注意した所、逆切れDQNにナイフで刺されて亡くなる事件が起きる。

このDQNの知人がワイドショーのインタビューに語るには…

「捕まらないだけでよくあること。若いやつならやっちゃうでしょ…」

だそうだ。まぁ、DQNだから驚く事は無いのだが、こうなると、こういうシチュエーションに出くわした場合、クマと同じで「逃げるしかない」のだろうか? 

以前、勤務地であった秋葉原のある東京都千代田区は禁煙条例ってものが出来て、路上で喫煙すると反則金を取られると言う事になった。で、いきなり反則金を徴収するのではなく、注意喚起する期間が事前にあったのだが、注意されて逆切れするリーマンとかねーちゃんとかを良く見かけた。暴力に及ぶ事までは見かけなかったが、言葉の暴力は相当あったのは目にしている。

電車の中でも、未だにケータイを普通に使う馬鹿がいて、注意されるとやはり逆切れする馬鹿の上塗りがいるワケだが、社会のルールを維持するために注意しても、逆切れされて傷害を負うのであれば、誰も注意なんかしなくなる方向に進む。誰だってそんな割の合わない事はしないし、相手が相手だから自分の身を守る事が何より優先する。「見て見ぬふり」と言うこの社会で重要な自衛方法だ。

では、このまま放置すると、この世の中はどうなるん? 司法関係者しかDQNやマル暴、珍走団に効力を発揮しない世の中になると、これはその数から考えても「荒れる…」方向にまっしぐら。

個ではなく、戸が無くなり、村とか町と言う集団的な浄化作用が欠如してしまった結果だとは思うが、どの社会でも「個」がまず優先してしまう。戸と言う最小の中でも社会のルールが消えて無くなり、そのまま外界へ出て1日を過ごす。ダメな個の延長が会社でも学校でも問題を起こしているのは言うまでも無く、解決を模索しているワケだ。個がダメなら戸。戸でだめなら町会。町会でダメなら村、町。町村でダメなら市…と言う様な枠組みで考えるってのは、昔からやっているが、昔から効果あったのかどうか疑問だ。と言うか、そういう枠組みで語るに術の無い問題なのかもしれない。

どうしたら、良い世の中になるのか? 考える人も少ないんだと思う。考える機会も無いのだと思う。みんなで考える、って所に行き着く前に、個人で考える段階で挫折しているんだと思うなぁ。これが無ければ、何事も改善や改良は無い。まず、自分が考えて、次にあんたが考える。で、隣のあんたも考えるって…考える動きが無いと、マズイなぁ。

そんなワケで、みなさんも考えて下さい。考える事で、案外と暗い事件は減るかも知れません。そう言う不思議な社会でもあるのです。

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2号。 | TOP | 台風だから、ありあわせ。 »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。