おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

祈りの先にあるもの。

2005-04-02 23:09:09 | 我思う、故に書くなりよ。
教皇が危篤である。回復は望めず、天に帰られるのを待つだけかもしれない。

10億800万人の頂点に立つ教皇は「法王」とも呼ばれ、唯一の神の代理人でもある。まぁ、神の子イエス・キリストを信じる者達の団体のトップでもあり、バチカン市国の国家元首でもあるワケで、普段は何をしているのかはよく知らない。いろいろなんだと思う。

んでまぁ、他宗教の人や無宗教の人にしたらあんまりどーでもいー話なんだと思うが、書いている私も無宗教なので、若干、そういう気持ちでもある。

だが、その成り立ちと、今までの歴史を考えると、その存在は元より、役割とかは大変興味深い。中世に巻き起こったルネッサンスやらと同じくして、科学の進歩は社会の発達と共に、歯止めが効かなくなった。それはそれで、人類に幸福をもたらし、不幸ももたらした。また、自然の脅威も遠慮無く人類を襲うし、神に助けを請うのは信徒に限った人ばかりではない。

まぁ、科学の進歩はキリストの教えを広める方から見れば、余計なモノだったかも知れない。多くの矛盾が生まれ、ツッコミどころ満載になってしまったのは否めない事だし、「神様だから…」ってワケにも行かなくなってしまった感じもする。そんな矛盾との戦いの歴史でもあるのだが、近代に入ってからの科学の進歩はめざましいモノだし、大変な苦労をそこに強いられるワケでもあったと思う。

そういう点で、非常に努力された教皇の1人である。時代と共に変わらなければいけない宗教に、伝統と格式をうまく残して次代に繋げる役割が、いかに困難なモノか。現代に生きる人間ならではの苦労だったと思う。なんせ、2000年受け継がれたモノは強固でもあり、確固でもあるワケだから、本筋を守るのもなかなか難しい。派生した宗教も数多く生まれ、本筋として、世界最大の信徒を抱えて、新しい時代と文化に即した形に少なからず変えていかないと、祈りの先にあるらしきモノは見えて来ないのだと思う。

既に、枢機卿が集まっている事から、ほどなくして新しい教皇が生まれる。その人も、同じ苦労をし続けて行くのだと思うと、神に最も近い所に居続けるのも大変なワケだ。そして、祈りの先にあるモノを明確に与えて行かなければならないと言う非常に漠然とした重責を担う。神の代理人として、それに応え続けるのも苦労だし、喜びでなくては務まらない。

神様の前に、こうした苦労を重ねた人達がいる事を知るきっかけとしては、あまりにも悲しい事かもしれないが、代理人は人間である。永遠の命が約束された者はいない。地上での職務を全うし、天に帰るワケ。

信じて、祈る先にあるもの。それを求めて探し、研究して行くのが「宗教」なのかもしれないと思う。まぁ、無宗教ならではの考え方かも知れないがね。

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