おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

紅白を見ながら…。

2012-01-05 19:03:12 | 我思う、故に書くなりよ。
とはいえ、Perfumeのとこだけしか見ていないんだけれど…。

例年より音が良かったと感じたが、地デジ化の恩恵なのかな? ウチはまだアナログなんだけれど…。

専ら、年末年始はFMを聴いて過ごしているので、今回もそうなったが、バラエティーを除く特番系の番組は幾つか見ている。あれだけの大きな震災や事故がおきたので、時間としてはたっぷり過ぎるほどであった。

だが…何か腑に落ちない。

「遺体なき震災報道」

だったからである。都合、2万人の人間の命が失われた大震災なのに、死体も遺体も映らないのである。

それを、不自然と感じなくなった自分が情けなくなった。

そんなに死体が見たいか? 見せたいか?

そうした次元に無い。事実を事実として報じるのが報道。そこ死体だろうが遺体だろうがあれば、隠す必要があったのか無いのか? そうした配慮や遠慮を考える前に、ありのままを報じるべきだったんじゃなかろうかとも思う。

ぼかしやモザイクなどもそこに必要はなく、ありのままを伝え残すこと。そうした事が必要だったのではないだろうかと考えていたり…。

阪神淡路、中越も経験していたハズなのに、何もかもが後手に回った。ボランティアの投入すら満足に出来なかったのも事実だし、大きな地震が想定されていたにも関わらず、東北はやられてしまった…。

そんなこんなを「想定外」と片付けるのも毎度のことになってしまった感があるが、それで済まされる被害ではない。絆を叫んで、復興を謳うのはやぶさかでないが、このままではきっとまた、同じ目に遭う。人々を警戒させ、備えに動かすのは快楽じゃない。恐怖なのである…。

その恐怖を、新聞やTVはちゃんと伝えただろうか? 見なければいけなかったものをオブラートでくるみ、見なくて良いことにしたり、伝えなくてよいことにして来なかっただろうか? そうした中での連帯だの共鳴だの、後々に活かせるものとなって行くんだろうか?

地震だの津波だの、まだいい。日本はいま、見えない恐怖と当面戦い続けなければならなくなってしまっている。

原発3基をフッ飛ばし、放射能を大量に撒き散らしてしまったツケがどのようなモノなのか、誰も知らない。
近づくこともままならないのでは、詳しい様子を知ることも出来ないので、何もかもが「中間報告」ではあるものの、幾つかの特番が組まれていた。

事故発生まもなくから事実をなぞりながら推論をしっかりとしたものとし、今後を見通し続けたNHKの報道は秀逸であったと思う。単なる大本営の拡声器に成り下がることなく、記者会見の内容を噛み砕き、疑問を提示し続けた姿勢があったからこそ、そこに「信頼」が生まれたのではと思う。実際、かなり早い段階からメルトダウンの恐れを指摘していたし、大本営のウソを暴きだす形にさえなっていたかと思う。

ま、どこが特番を組んでも「中間報告」なのだから、今後に期待するほかに無いだろうけどね…。

本当のことを、誰もが知りたがった1年であったんじゃなかろうかと思う。2011年は。
だけれど、本当のことはちゃんと伝えられたのか? 誰かが検証しなければならなかったと思う。そして、本当のことを知り得たのかどうか? 遺体なき大震災で良かったのか? 無いことで安心して、本当のことを知ることが出来たのだろうか?

そして…知らなくて良かったのか? 見なくて済んで、良かったのか? 限定された被災者だけが体験し、知れば済むことだったのか? 次に起きるだろう災害や事故でも、同じ事をしてしまうのが良いのか悪いのか…。

飽和した恐怖を余すことなく伝えるのは難しいし、それは限りなく不可能なことでもあるのだが、だからこそやらなかったら、防災大国にはいつまでたってもなれない気がする。





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