おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

ブログが進まない。

2006-04-01 13:23:03 | 我思う、故に書くなりよ。
他にハマっているモノがあると言う理由だけではないみたいだ。

自転車生活を始めて、体力の想像以上の衰えに驚き、特に心肺機能の低下が著しいことこの上ないワケで、タバコを吸うのをやめている。全くやめてしまったと言う気はさらさら無いし、父が肺ガンで死んだとか言うコトもあるにはあるが、趣味として味わっているので「やめろ」と言われてやめる気には全く無いのだが、自転車の楽しさがスポイルされるならばやめてみようかと…思っただけ。

やはり、吸いたい時には吸いたくなる。特に、何かを考えながら作業するとか、そうした時には無性に吸いたくなるのだが、吸うのを忘れていると、考えがまとまらなかったり、遅々として捗らなかったりしてしまう。

ブログもそう。でろでろと書いているだけなのだが、脳みそにポンポンと浮かんでくればでろでろと書き続けられるが、タバコが無くなっただけでそれが出来なくなってしまった。何と言えばいいのか、集中力が結集してくれないのである。

そう。まさに「禁断症状」。物理的に吸わないコトが苦しいのではない。比較的遠距離通勤が生活のほとんどを占めていたので、吸えない時間は圧倒的に長くなる。勤務中もぷかぷか吸うわけには行かないので、吸えない時間が長くて当然ではあったのだけれど、吸える時間もあった…と言うモノが無くなったコトが苦しいのかもしれない。

健康に良くないのは承知の上での楽しみでもあるので、タバコのせいにするのもなんだかなぁ…と言う気がするから、年度も替わって4月バカだし、ポワゾンダブリルだし、ちょいとしっかりとでろでろ書ける様に戻らないとなぁ。

ブログに付いて言えば、たまにコメントやらトラバがあったりするのは判っているが、鬱病のリハビリ程度の気持ちで始めたので、あまり気に掛けていない。そうした点では期待に添えないブログである。それでもまぁ、コメントらしいコメントにはコメントしてるし、トラバしたいトラバにはトラバする気もあったりするが、無理して過剰に積極的では無いと言うことかな。わけわかんないのも多いしねぇ。

さて、すっかり春と思いきや、結構な勢いで「寒い」。陽の出ている日中はそれほどでもないのだが、曇りの日になると遠慮なかったりする。で、火鉢もハクキンカイロも未だにバリバリ活躍してもらっている。特に「火鉢」は大活躍。今まではお湯を沸かしたり、手炙りとしての活躍がメインだったのだけれど、餅や、ちょっとした干物なんかを炙っておやつにしながら、薄ら寒いのをやっつけていたりする。やはり「炭」の暖かさは他の暖房とは異質でありながらも、上品だし、質の高いものがあったりする。

よく遊びに来る小学生の甥も、火鉢と言う「システム」が気に入った様である。なんだか楽しいけれど、危なさそうだし、おっかない…って感じ。それで良いんである。もろに「火」を扱い、灰の上に置くだけのシステムは正直言って危険極まりない。熟知しなければ扱えないし、いい加減に扱えば「死」は簡単にやってくる。何もかも簡単に暖房が身の回りにあるのが当たり前なのが当たり前になってしまっているが、扱っているのが「火」に変わりなく、その危険も同じであるにも関わらず「安全」と勘違いしそうな勢いがそこにあるのは、人間として「マズイ」。

あちいものはあちいし、火傷もするし、遠慮なく火事になるのも「火」。それを使いこなす…って所に人間の価値があったりするのに、忘れそうになっている人間が増えている気がする。火に限らずだけれどね。

『ミュンヘン』を見た後に、なんだかしっくりと来ないモノがずっと漂っている。

何かを期待していて、裏切られた…と言うのとは違う。明らかに重いし、ズッシリとした手応えは受け取ったのだけれど、何かがしっくり来ない。それが非常に不愉快で、悶々としてたりする。だけれど、それが何だか判らない。それも悶々。

あまりにもヒューマンなモサド像かもしれない。でも、ヒューマンだからこそ名を馳せた組織だったではないか。その辺のギャップが自分の中に生まれているのが原因なのかもしれないと考えた時、今一度、モサドを知り直す必要があるかもしれないと思った。ハイテク満載のCIAや、体制を裏付けたKGBとは違う素性を持つ諜報機関としての「モサド」。エリ・コーエンの遺体奪還こそ、その違いの最たるものではなかっただろうか。アイヒマン拉致やイラク原子炉爆撃破壊と言う派手な活動は確かに目に映えるものだけれど、国家のために命を落とした者への忠義の厚さはヒューマンそのものだと思う。

日本にも、国を売るなら命を絶つ…と遺書を残した外交官がいた。この時代に…である。そもそもは彼の不注意が招いたと言えば、それまでだが、今のこの日本に、国を憂いて、自らの命を絶つ人がいた事。正直驚きである。命を絶ったからと言うワケでは無いが「立派」だ。日本は彼にきちんと報いるコトが出来るんだろうか? この日本のために命を落とした…それ自体がもうナンセンスと言う人もいるかもしれない。確かにそう思える。だがこれを立派と言わなかったら、何と言うのだろう? 方法としては、疑問も残る。やはり生きて、明らかにするべきだったかもしれないが、彼は追い詰められてしまった。そして、こうした人にきちんと報いるコトが今の日本に無ければいけない。「公」に「私」を捧げてしまったコトの意味を、単なる事件事故で済ませてはいけないんじゃなかろーか。

ぼちぼち、ゆったりのんびりな「自転車生活」。

MTBを買ったのは良いのだけれど、MTBはMTBなんだがMTBらしい乗りっぷりが出来ないサイズを買っちまったワケで、今風に言うと「クロスバイク」的な感じが相応らしい。まぁ、買ったMTBでMTBらしい乗りっぷりをしてしまうには難があったりするらしいので、街乗りMTBで丁度良いらしいのだが、そもそも街乗りと言うカテゴリーがあった事すら知らなかった。もう、それはそれは結構な細分化が出来ちゃっていて、下り専用とか上り専用とかもあったりするらしい。難解である。

それらしい乗りっぷりをするには体力が全く追いついて無いので、どーでも良いのだけれど、自転車そのものはあまり大きな変化は無いみたいに見える。実は細かい所で画期的な進歩もあるんだろうけれど、意外に変わっていない。それを実感するのが「お掃除」の時なんである。

相変わらず、手の届かない所がメチャ汚れる。キレイにしたいんだが、指すらも入らず、子供用の歯ブラシさえも入らない。不満が残る仕組みだの機構は変わっていないと言うコト。パーツクリーナーなるケミカルの大きな良い仕事には感動したりもするが、不満を解消するには「分解」する他に方法も無さそう。そうした面では20数年前と何も変わっていない風に感じてしまう。フレームやらホイールやら、デザインも多様化して、ハイテクがちらほら見受けられたりもするにはあるが、なんだか根本はとても「レトロ」な気がする。ITとかとは無縁の「産業革命」なんて時代のそれとさほど変わっていないんじゃないか。だけれども、それがまた「安堵」だったりするから楽しい。自転車1台なんとか出来なくてどーする? って所がまたねぇ。

そう考えたら、今の子供って楽しめるモノが本当は溢れている。手を付けないだけなのかもしれない。油まみれになって汚れた手や、指先の細かい傷が沁みるのを嫌がって触れないために、もったいない思いを知らないままに過ごしてしまうのかもしれないねぇ。自分も、そうなのかも知れないと思うと、遊び心は止まらなくなる。





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