アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

散歩の犬の糞害をうけない究極の方法

2010年07月25日 | Weblog
 カラスが鳴かない日はあっても、散歩の犬が我が家の前で糞をしない日はない。最近は、犬の他に猫まで加わった。散歩の犬猫に糞をさせない方法は知っています。しかし、その方法を実行すると、エチケットをわきまえない飼い主どもから、「散歩の犬に糞をさせないケチな家」として、嫌がらせを受けるでしょう…。

 で、どんな方法か?犬(猫)が糞をする場所に、「あるもの」を設置する。手作りの、いい加減なものでよい。その、あるものとは、「鳥居」。大きさは、せいぜい高さ30cmでOK。
 鳥居は、神社などにおいて、「神域と人間が住む俗界」を区画するもの( 結界 )。神域への門。このような場所で犬に糞をさせる飼い主は、間違いなくバチが当たります。「結界」の意味を知らない飼い主でも、「ここで糞をさせては、なんかヤバそう」と、嫌がる犬を無理矢理引きずっていきます。そんなわけで、糞害に遭わずに済む。え?「鳥居が一個なら足りないだろう」って?そうですね、鳥居は、たくさん並べた方が効果が高い。鳥居制作費用もバカにならない。

 ところで、犬は自分のことを「犬」と認識しているのであろうか?エピ(ジャック・ラッセル・テリア。メス7歳)の飼い主は、「犬は、自分が犬であると認識しています」とキッパリ。根拠を問うと、「エピは、鏡を見ても吠えない。これは自分の姿だなと認識できているから」。また、別な犬好きは、「犬は、自分のことを人間だと思っています」と。根拠は、「犬は、鏡を見ても、それが自分だとは分からない。変な動物がガラスの向こうにいるなあ。と、いった程度。自分は、人間だと思っている」
 この、「犬が自分を何者だと思っているか」については、解明不能でしょう。なぜかって?犬から本心を聞き出すことができないから。

 犬の前に、人間は自分たちが何者かをはっきりさせなければならない…。
 前旭山動物園園長の小菅正夫さんが、「人間にはどうして動物園が必要か」という文章を書かれている。
 「どうして動物園が必要か」…私は、そんなこと考えてみたこともなかったが。
 動物園は、中国の周の時代からあった。紀元前十一世紀です。大変な歴史がある。同時期にイスラエル(ソロモン王)も動物園を所有していた。動物園は、人間に不可欠のものということか!

 小菅正夫さんの、「人間にはどうして動物園が必要か説」は・・・人はかって住んでいた森を離れて平地に降り、人間だけで住むようになった。同種の動物だけが固まって暮らすのは、地球上で初めてのこと。その時、人間の心に何らかの「歪み」が生じた。「人間とは何?」ということがわからなくなった。そういう場合、人は人間以外の動物を鏡にする。動物を見て、「ああ、自分は人間なんだ」と、安心する。だから人間は動物を見たくなるのだ…。
 また小菅さんは、「動物園は、人間性の再創造の場」とも。

 終戦後、「ゾウ」は、名古屋の東山動物園にしかいなかった。「ゾウ列車」が仕立てられ、全国から子供達が集まった。食糧も満足にない時代に、「なけなしのお金と膨大な時間を使ってゾウを見に行った」。酔狂ではこのようなことはできない。「何かを得ることができる」からでしょう。小菅さんは、「心に働きかけるなにか。生きる勇気、生きるエネルギー」と、とらえておられる。

 戦争で食糧がなく、ゾウが涙を流して餓死していった話。誰でも一度は読んだことがあるでしょう。…戦時でも人間は動物園を求めていた。…小菅説は正しいと思います。自分自身の明日の命も分からない状況下でも、人は動物園を求めていた。

 ペットは、「ああ、自分は人間なんだ」との安心を得るために飼っている?…「人間性の再創造」のために飼っている?
 そんな難しいことを考えて飼っている人など誰もおりませんね。え?「ペットと動物園と一緒にするな」って?そういえば、動物園に犬はいないもんねー!