アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

縄をNOW!

2020年06月19日 | Weblog
 幼少時の私の家事手伝いの一つに、「夜の8時になったら、玄関のカギをかう」ことがありました。
  「カギをかう」、我が家の場合は、「心張り棒」をかっていた。「シンバリボウ」言葉の響きが頼もしい。漢字も、「(泥棒に)心を張る棒」ですから、棒に何かが宿っているような…。戸を強く蹴られると、外れてしまうのですがね。

  「カギをかう」「心張り棒をかう」の、「かう」ですが…ずっと、方言だと思っていました。共通語では、「カギをかける」でしょう。疑問だったのは、「心張り棒をかける」とは言わないということ。やはり、心張り棒は、「かう」。
 半世紀ほど生きてから、「カギをかう」「心張り棒をかう」の「かう」が、方言ではないことが分かりました。立派な…かどうかは分からないが、共通語でした。「かう」を漢字にすると、「支う」。「目から、ウロコが落ちただろう」って?ハイハイ、ホットケーキ大のウロコが落ちました。
 
 「心張り棒を支う」。「心張り棒」「つっかえ棒」「用心棒(荒野の用心棒とは違う、本物の棒)」は、正しく、「支う(かう)」という状況にして使用します。戸を支えるわけですから。
  「心張り棒」が廃れて、というか、時代遅れになって、「カギ」になった。カギをかけるには、「支う」という動詞は似合わない。しかし、心張り棒以来、「支う」は庶民に支持されていたので、「カギを支う」と、使われ続けた。

  「米をとぐ」…これも、子どもの頃は、不思議な言い方の一つでした。「庖丁をとぐ」「鎌をとぐ」は、よく分かる。しかし、米を砥石でとぐのか?砥石ではとがないが、ぬかやよごれを取るために洗う。それを「とぐ」という。なんともよく分からない日本語…。漢字は、「磨ぐ」か「研ぐ」のどちらかが当てられていますね。
 都市伝説に、「米磨ぎは、お米を洗うことだからと、洗剤を入れて米を洗った。結果、肝臓病になった」という話があります。
 似たような話に、「ウチの子、オシッコが黄色いんですけど」と、いうのがあります。紙おむつのCMで、オシッコにみたてた青色の液を使っていましたよね。CMを観た若い母親が(普通の子はオシッコが青いものと勘違い)びっくりして、主治医に相談したという。母親が青くなった…。よくできたお話ですね。

 「おじいさんは、山へシバカリに、おばあさんは川へ洗濯にいきました」…桃太郎の話です。幼少時は何の疑問も持たなかったのですが、小学生になって、「山にゴルフ場があって、おじいさんが芝を刈りに行ったのか?昔話なのに、ゴルフ場があるのは妙だ?」と思いましたよ。そのうちに、「芝」ではなく「柴」で、「シバカリ」は、「たきぎ取り」と分かりましたが。
 「柴を刈る」がこれまた難解でした。なぜ、「柴拾い」ではなく「柴刈り」なのか?刈った柴なら生木だから燃料にならない…と、少年は考えたのでした。昔話は奥が深くて、理解に時間がかかります。

  「泥棒を捕らえて縄をなう」ということわざがあります。事態が起こってから、対処すること。「縄をなう」の「なう」は、編むと言う意味。「縄を編む」…これも、しゅっくりこない。やはり、「縄は、なわなければならない」。漢字では、「綯う(なう)」。
  泥棒を捕まえた。さて、縛り上げる縄がない。「だれが、縄を持ってきてくれー!今すぐに!now!now!NOW!」というわけで、「縄をnow!」が「縄を綯う」になったということは…ありません。