そろそろ畑のサツマイモを掘ってもいいかなあ。
と、そこまで思ったが、暑い!
31℃ある。暑い!
畑に下りていく気持ちにはならない。
そろそろ畑のサツマイモを掘ってもいいかなあ。
と、そこまで思ったが、暑い!
31℃ある。暑い!
畑に下りていく気持ちにはならない。
自己膠着の、こだわりを棄てる。馬鹿馬鹿しい。重たくしてるの馬鹿馬鹿しい。
秋風が吹いて、今日は爽やかになった。
いろんなことを考えるなあ、ぼくは。
そんなこと考えなくてもいいのに、考えている。
暇だなあ。
*
考えていないと死ねない、というのでもないのに。
それでも考えている。
暇だなあ,お爺さん。
*
考えていても、考えてなくても,死ねるというところがいいなあ。
じゃ、考えない方がいいか。
どっちだっていいのである。
*
自力往生なし。他力往生である。
わたしは愛と光の宇宙生命体。愛と光の宇宙から来たから、愛と光の宇宙に戻って行く。輝いて輝いて戻って行く。
*
じゃ、台所へ行って、爪切りで、伸びた爪でも切って来るか。
たくさんたくさんたくさんの借りを返さずにこの世を去って行ってもいいというのであるから、実にムシのいい話ではないか。
この世を過ごすに必要な愛情だけを、生きている間ずっと百千万億兆頂いて暮らして来た,感じがする。頂いた愛情の返しがない。片手落ちすぎている気がする。
返済無しで、死んで行けるのである。実にムシのいい話ではないか。
それでこの世界を死んで行っていいというのである。負債だらけで死んで行くようなものである。それでいいというのである。死ねば、一切合切が帳消しになるというのである。
*
これでいいのである。
わたしの死後には、新しい次の一年生がこの地球学校に入学して来る。そこでまた人間の学びを学んで行く。全寮制で、なにもかもが無料で支給される。
一生涯、自堕落で通したわたしの地球人生なのに、それでもわたしは、阿弥陀仏の願いに願われて、極楽浄土に招き入れられて成仏するのである。
なんだか申し訳ない気がする。
申し訳ない気がするが,仏の願いが願われていなかったら、わたしはどうなっていただろう? 千年万年億年を、人を憎み人を恨み、己を憎み己を恨んで、ただただ迷いに迷って、堂々巡りをして、過ごすことになってしまっていただろう。
その無明のわたしに、道筋がついていた。そこを抜けて行く道筋がついていた。進むべき道があった。
十方所来諸仏子 顕現神通至安楽 瞻仰尊顔常恭敬 故我頂礼弥陀尊 龍樹菩薩龍樹菩薩経典「十二礼」より
*
じっぽうしょらいしょぶっし けんげんじんづうしあんらく せんごうそんげんじょうくぎょう こがちょうらいみだそん
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十方より来たるところの諸々の仏子は、神通力を顕現して安楽(国)に至り、(阿弥陀仏の)尊いみ顔を瞻仰す。この故に我(=龍樹菩薩)は阿弥陀世尊を頂礼す。
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十方の星々、国々より、阿弥陀仏を慕って集まって来たたくさんの(物質界の物質的)死者たちは、阿弥陀仏の神通力を頂戴し発揮し、(永遠の宇宙の命として)再生し、弥陀仏の建国した極楽浄土に到着し、そこで安らかな阿弥陀仏のみ顔を仰ぎ見ることができたのであった。
かくかくしかじかのことを思って、感極まって、わたし(龍樹菩薩)は阿弥陀如来を拝して敬うのである。
(これはわたしの解釈であるから、解釈の底が浅い)
*
此処にはわたしたちの(物質界)死後のそれからさきの道標が書き記されている。ここに至り着くのである。これは阿弥陀如来の神通功徳である。徹底して他力である。わたしの力を必要としていない。わたしの力で至り着けというのであれば、オミットであったが、そうではなかったのである。わたしたちの安楽国到達、往生成仏は仏の約束だったのである。仏に間違いはあるまい。
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心配は要らない。安心していい。安心して死んで,安心して成仏して仏として生きるのである。
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この一筋の道を明示した仏教経典を読むと落涙する。
もうそんなことは、どうだっていい。そんなふうになってしまっている。
どうだっていいことばかりなのだ、世の中を離れて暮らしている老齢のお爺さんには。
*
そういうわけで我が関心事は、どんどん少なくなって行ってしまう。
がむしゃらに追い求めるものがない。追い求めのものがなくて、これでよくまあ生きていられるもんだ、と思う。
*
死んで行くための道中だからなんだろう、執着していたものが徐々に徐々に手を離れていってしまう。
これでいいのかもしれない。