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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人は互いに互いの医者でもあるのです 元気を回復させてあげられます

2018年03月27日 23時00分21秒 | Weblog

小乗仏教は自利というところをやかましく言います。自己を完成させることが自利の内容です。智慧を育て上げることが眼目になります。大乗仏教は、これに対して、利他というところをやかましく言います。他者の利益を図ること、他者を救済することが利他になります。慈悲を実践することが眼目になります。

仏教は0と1の2進法です。究極の0を知ること、涅槃を寂静とすることです。そこから動き出すと1になります。自己完成の悟りの内容に足が生えてきます。実践実行してはじめて悟りが具体化されてきます。2進法ですから、1はまた0に戻ります。0は充電です。1は活動です。二つは結局のところ相俟っているのです。

他者を救済するには、それだけの力を備えていなければなりません。その力が、実は無尽蔵だということを、悟りが教えてくれます。だから惜しみなく他者にも分かつことができるのです。その力のことを法とも呼んでいます。ダンマとも呼んでいます。

他者の救済とは、他者の苦しみ悲しみを癒して差し上げることに通じています。苦しみ悲しみが昂じると人は、気を病んでしまいます。気は、流通の気孔をいつもは開いていますが、苦しみ悲しみが増すとこれが閉じてしまいます。これをもう一度開けて差し上げるのです。

元気の気孔を開いている者は、他者の元気の気孔を開けるだけの力を備えています。小乗仏教はだから大乗仏教へ進むのです。大乗仏教も小乗仏教に戻るのです。二つは、よりよく作用し合っています。

自己を治癒している者の能力を自治能力と、わたしは、呼んでいます。この能力は特別のものではありません。普通、誰にでも備わっています。これは電流のようなもので、相手に流れて行きます。相手の躰の一部に触れただけで流通を開始します。握手でもそうなります。言葉を伝って流れることもできます。

自治能力は分裂して増殖して移動します。家族の間ではこれが日常的に行われています。元気を分かち合って暮らしているのです。人は互いに互いの医者でもあるのです。

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寝ている間に宇宙船が飛来してきてエネルギー補填をしてくれます

2018年03月27日 22時43分12秒 | Weblog

そろそろやすみます。寝るのだから「休みます」よりか「寝みます」の方がぴったりきますよね。でも結局は心身を休めること。休息を与えることになりますけど。起きているときにはやはり緊張を強いられています。これを解き放つのでしょうね。とりわけ頭脳や目の疲れを取り除いてあげることになります。

一日24時間のうちの3分の1は休息をとる時間というのは有り難いことですね。休息をとるとまた次の活動のためのエネルギーが満たされています。不思議なことです。休んでいる間にこれが為されています。空中給油のようなものですね、これは。ユーホーの宇宙船が飛来して来ます。そしてエネルギー補填をしてくれます。

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クレヨン水彩の仏画がお金になったら貧乏を抜け出せるのになあ

2018年03月27日 20時17分54秒 | Weblog

僕の描くクレヨン水彩の仏画がお金になったら貧乏を抜け出せるのになあ。仏画をお金に換えることは不謹慎なのかもしれないけど。僕の描く仏画は、写実ではない。漫画チックだ。でもその分は親しみやすいだろうと思う。描いても描いてもなかなか仏さまにならない。ただの人になってしまう。だから何度も何度も描き直す。するとときおりの時折、それらしく感じる作品が出来上がる。こういうときには、「おい待て、何か僕の力量を超えているぞ」と思う。手助けの助っ人が肩に来てリードしてくれているのを感じる。ふんわりそれを感じる。このところあまり描いていないけど、お金になるんだったらまた描いてもいいなあ。こんな功利主義では仏さまの絵なんてとても描けないかもしれないな。

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昼からはずっとクレヨン水彩画を描いて過ごした

2018年03月27日 20時00分02秒 | Weblog

昼からはずっとクレヨン水彩を描いて過ごした。依頼されていたのが締め切りまで残り僅かとなったので。でも、思い通りには行かなかった。なにせ、もう随分と絵筆を握っていなかったのである。なにせ生来の怠け者である。まずは、昔取った杵柄の、杵柄に馴染むまでに時間が掛かった。数時間は、描いても絵にならなかった。焦った。でもどうしようもない。忍耐強くするしかない。ともかく描くしかない。忍耐強く待った。少しずつ回復を感じた。六地蔵が完成した。これは漫画チックだけれど、意に適った。しかし、仏教色では不都合。結局のところ、短歌同人誌の表紙を飾るような、格好の作品は出来上がらなかった。6時半で切り上げた。デッサン力をつけるために、最後に、ヨガ体操のラクダのポーズの写真を模写してみた。これはまあまあ満足がいった。形が整った。明日からまた勉強をし直そうと思う。やはり謙虚でなければならない。地道な練習を積み上げねばならない。

 

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李白の詩を読む 全肯定の詩を読む

2018年03月27日 12時11分22秒 | Weblog

秋浦歌其十五     李白

白髪は三千丈/愁いに縁(よ)りて箇(かく)の似(ごと)く長し/知らず明鏡の裏(うち)/何(いずれ)の處(ところ)よりしか秋霜を得たる/

白髪三千丈/縁愁似箇長/不知明鏡裏/何處得秋霜

わたしの黒髪は白髪となった、それも長々と三千丈。これはすべて生きものが嘗める愁いのなせる業でどうすることもできない。そかしそれは宇宙という明鏡の裏でそれをよしとしてそうなったもの、わたしの知る範囲を超えている。何処でどうなったのか、つまりは、水の鏡に映ったわたしに、秋の霜のような白髪が降りて来て、わたしは不老長寿している。(さぶろうの我流解釈)

李白は何度も奥さんをかえている。何の因果か4度も5度も。もちろん子供もいる。酒が好きであった。天真であったらしい。詩が湧いて溢れて来たらしい。羨ましい限りだ。羨ましい限りだ。彼の詩は何千年たっても生きて読み継がれている。 

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肉体の死が「わたし」の死だろうか?

2018年03月27日 12時00分16秒 | Weblog

肉体の死が「わたし」の死だろうか? 物質の肉体の死は、「わたし」の中の物質の死なのではないか。

わたしを物質としてきた存在が背後にあるのではないか。背後と言わずその中心核にあるのではないか。そこからエネルギーを充填されていたのではないか。

「わたし」を精神そのものにするというベクトルが動き出して来るのではないか。「わたし」は小間切れの木の棒ではない。端くれでは生きては来られなかったのである。

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物質を死なせた「わたし」は案外軽いのかも知れない

2018年03月27日 11時47分10秒 | Weblog

肉体は死ぬ時が来たら死ぬだろうが、どうだろう、精神はそこであっさりいっしょに死ぬだろうか。精神が脳そのものならば、死んで行くだろう。脳からの脱出を図ることが可能なら、どうだろう? じゃ、脱出が完了したら、そこでどうするのだろう? 何処へ向かうのだろう? そもそも精神に時空が必要でないとしたら? 何処にも行かないということになるだろう。此処という存在力点も要らないのなら? 融通無碍ということになる。生即無生、死即無死ということになる。そういう自在を勝ち得ている精神があるとすれば、どうなるのだろう? もちろん小さな存在点の「わたし」に執着することはないだろう。「わたし」を引き連れて行くのだろうか? 物質を死なせたわたしは、案外軽いかも知れない。時空の穢土などは軽く軽く舞い上がっていけるのかも知れない。

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わたしはわたしの生き方を通す

2018年03月27日 11時34分39秒 | Weblog

お縁側に座ってトコロテンを食べた。胡麻をたっぷりかけて。酢醤油で。一椀。外は春をしている。蜜蜂を寄こして誘い出しに掛かる。でも誘いに乗らない。菜の花がゆらりゆらり揺れて、遊戯三昧のエクスタシーを放って来る。でもそれにも乗らない。わたしはわたしの生き方を通す。トコロテンをしまいまで、胡麻の残り粒一粒まで啜ることに集中する。

 

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彼は非物質であることを楯に取って怠けている ラスト

2018年03月27日 11時29分48秒 | Weblog

言っておこう。精神氏は時間など気にしていないのだ。まったく影響を受けていないのだ。無年齢なのだ。縦横無尽を生業(なりわい)としているのだ。

とうとう肉体氏は最後の手段に出る。心中を図る。死んで遮二無二の心中を図る。さて、精神氏は泣いておめおめそれに従って行くのかどうか。彼はねっからの無頼派なのである。しかし、彼にも弱点はある。さすらいの旅人にも、泊まる宿が必要だと言うことである。いやなに春の大空を宿とすることだって、あるのかもしれない。

彼はともかくも最後まで非物質なのだから。物質の肉体氏の思うままにはならない。

 

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彼は非物質であることを楯に取って怠けている その5

2018年03月27日 11時17分35秒 | Weblog

行司役のわたしは、二人の相撲を時々はらはらして見ている。古株の肉体氏が勝つこともある。精神氏が溜まったエネルギーをいいことに、巻き返して押し出すこともある。肉体が精神をリードするとわたしは老けるが、精神が肉体をリードしてかかるとわたしは若々しさを取り戻す。そして、あろうことか、ぶざまに欲望をさらけ出すようになる。老いた肉体氏がこれを抑える。これでバランスがようやく保たれる。はち切れた精神の少年は花野の原を駈け出して行きたくなるが、肉体氏はこれに追従できない。

 

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