<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

生きている時間が海波の浸食作用のように削られて削られて行く

2018年03月03日 17時50分22秒 | Weblog

寒い。風邪引くんじゃないかな。心配になる。クシャミがついて出る。エアコンもつけて、炬燵にも入っている。なのに寒い。ぞくぞくする。セーターとジャンパーを着込んだ。

書いてないと不安になる。生きている時間が海の浸食作用のように削られて削られて、見る見る少なくなってきた、そういう印象を持っているからだろうか。生きている間に何かはっきりとした生命活動をしておきたいと思うのだろうか。たとい、そうしたとしても、それで死ななくなるということはない。それが分かっていても。

書くこと以外で、浸食の歯止めは可能だろうか。人はそれぞれそういう歯止め努力をして過ごしているのかも知れない。死ぬべき運命を忘れる、いのちが刻一刻削られていることなど気に掛けない、まるで無頓着にしている、そういう抵抗策も意外と有効なのかも知れない。

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わたしの足元から次々と新しいわたしが芽生えてくることはない

2018年03月03日 17時34分51秒 | Weblog

雑草が畑一面に生えている。埋め尽くしている。気温が上がってきたので、一気に勢いが増している。いよいよ青々となった。寒いのにめげない。彼らは強い。ほとんど死なない。枯れたようになるがまた生き返る。次々に新しく後から後から生えて来ているのだろう。

人間だとこうはいかない。わたしの足元から次々に新しいわたしが芽生えてくることはない。地上での同一人物の蘇りはない。年老いたらみな死んでいく。100歳まで生きている人はこのごろそんなに珍しくはなくなったが、200歳まで生き延びたという人はいない。やはり死に絶える。死んで死んで生まれて生まれて、結局は総入れ替えとなる。

春になって力を得てびっしり畑を埋め尽くしている雑草の方が、生き続けるという全体姿勢では、寧ろ余程したたかなのではないかと思って、畑を眺めたことだった。

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薬王菩薩・薬王菩薩は兄弟です 良薬を授ける菩薩です

2018年03月03日 16時02分28秒 | Weblog

オン・ビセイ・シャラ・ジャヤ・ソヴァーファー。これは薬王菩薩・薬上菩薩の共通真言マントラです。二人は兄弟ですから。このお二人の菩薩様は法華経の経典(薬王菩薩本事品)の中にしばしば顔を出されます。日月浄明徳如来にお仕えします。法華経の妙荘厳王本事品には菩薩になられる前のお話も載っています。わたしはことのほかこの兄弟の菩薩様に親しみを感じています。浄蔵がお兄さん、浄眼が弟です。二人は雲雷音宿王華智仏のもとで修行に励みます。薬王菩薩・薬上菩薩は釈迦如来の脇侍です。また阿弥陀如来の25菩薩に一人です。薬王菩薩の前世の名は一切衆生喜見菩薩と言います。現一切色身三昧という三昧に達せられました。梵語ではお兄さんがバイシャジャラージャ、弟がバイシャジャサムドガタと言います。二人とも良薬を与える力を得ておられます。病気を治す力を授けられています。

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ことばは泡なのか 泡ならすぐに消えてしまう

2018年03月03日 15時32分44秒 | Weblog

やれやれ、雨になってきたなあ。雨音がする。まだ3時半なのに、もう夕暮れの空の顔だ。

ことばを材料にして創作活動をする。創作とは創造すること作用すること。果たしてそうなっているのかなあ。創造はしても作用してなかったりしているかもしれない。そもそもその創造も怪しいといえば怪しい。

それはその場で消えてしまうものなのか。幾ばくかでも残るものなのか。わたしを離れても独立し得ているかどうか。

ただの泡なのか。ことばの泡なのか。泡ならすぐに消えてしまう。消えてしまわないものを創造と呼ぶのかも知れない。

珍しく百舌鳥がやって来た。木の棒のとっぺんさきに止まって尻尾をふりふりしている。威厳があるなあ。こちらを見ている。飛び去っていかない。雨音が高くなった。

 

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わたしが世界の中で生きているのか 世界がわたしの中で生きているのか

2018年03月03日 15時22分51秒 | Weblog

わたしが世界を生きているのか。世界がわたしを生きているのか。どっちだ! 

どちらにしたって、そういう一対一の関係性が成り立っているのなら、わたしがいなくなれば世界がなくなってしまう。そういう構図も成り立つだろうが、そうはなるまい。

世界がわたしを取り込んで生かせばいいのだから。わたしがいなくなっても、世界が気を利かしてくれればすむことだから。

わたしが世界を舞台にして生きているのか。世界がわたしを舞台にして生きているのか。ときおりは相互交通が可能かどうか。

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今日は若者たちが飲みに来る 夕方6時から

2018年03月03日 15時11分11秒 | Weblog

今日は若者たちが飲みに来る。夕方6時から。男性2人、女性2人。これに我々家族が加わる。台所のテーブルの椅子が足りなくなるかも。

材料は揃えてある。蕗の薹。子持ち甘藍。小松菜。水菜。緑菜。小葱。大根。肉饅。イサキ。焼き肉牛肉。缶ビール。日本酒。焼酎。ワイン。

青年達の話を聞こう。まったくついていけないかも。その時は早くその賑やかな場を離れて、風呂場に隠れて、それから寝てしまおう。それがいい。そうなるだろう。

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はい、安上がりな男です わたしは

2018年03月03日 15時03分13秒 | Weblog

三時の珈琲タイムです。薄い薄い珈琲です。こんな薄い珈琲は人様は飲めませんよね、きっと。湯に色がついたほどです。でもわたしはこれで十分です。おいしく飲めます。はい、実に安上がりな男です。逆に、濃いとわたしは口すらつけません。

 

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着いたぞ着いたぞとうとう着くべき処に着いたぞ ラスト

2018年03月03日 14時55分00秒 | Weblog

仏さまの智慧(=菩提)の世界の、その仏さまの智慧(=仏智見)の、その実現は、わたしたちからすると魔法にしか見えません。わたしの煩悩無明が捕まえられる相手(=菩提・仏智見)ではないのです。

(魔法を使うのは嫌だという主張も当然湧いて来ますよね)

わたしはそのように勝手気ままに受け取っています。こう受け取っていると、らくちんです。らくちん遊びです。戯れごとです。呪文を唱えて遊戯三昧の練習をしてみます。わたしがその気になれば、それでもうパーフェクトです。これは全肯定の呪文です

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着いたぞ着いたぞ着くべき処に着いたぞ その3

2018年03月03日 14時50分03秒 | Weblog

ギャーテー/ギャーテー/ハーラーギャーテー/ハラサンギャーテー/ボデー/ソヴァファー。

長い長い旅の旅程がこの呪文で一瞬にして0になります。もうここが目的地です。到着しています。らくちんです。

呪文というのはジェット機のようです。但し「マッハxマッハxマッハ」級の超スピードのジェット機です。乗ったと思ったら一瞬で着いています。(途中省略をしますから、じっくり途中の風景が見たい人は遠慮すべきです)

だから、まあ魔法のようなものです。こころの魔術です。これはだれも使える魔術です。

 

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着いたぞ着いたぞ 着くべき処に着いたぞ その2

2018年03月03日 14時46分53秒 | Weblog

これは呪文です。これを口にすると呪文が成就されます。呪文の通りになります。これでみんなと合流が出来ます。合流遊びです。言葉遊びです。これでわたしの心身は浮き上がります。

わたしたちは旅をしています。でもちゃんと目的地が設定された旅です。迷わずにすみます。右往左往する旅ではありません。苦労を重ねますがその分の張り合いもあります。そこへ一歩また一歩と進んで行きます。

 

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