<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

畑にはまだ各種野菜が残っている 食べずに捨てるには忍びない

2018年03月23日 18時36分48秒 | Weblog

一日ずっと外に出ていた、ひとりでお昼ご飯を食べるとき以外は。外に出て畑仕事をしていた。野菜類の収穫に励んだ。抜いて来て、土と根株を落として、朽ちた葉っぱは落として、一枚一枚葉っぱを剥がした。葉は薄緑色をして柔らかい。それを丁寧に外の洗い場で洗った。それからそれを平たい籠に列べて干した。何籠も何籠も。九条葱もスコップを使って掘り上げた。立派な葱が育っていた。小葱のトクワカも抜いて揃えて洗った。二種類の白菜、不断草、萵苣、ブロッコリー、子持ち菜、大根などなど。夕方東京の娘の家族へ、林檎箱に数種類の野菜を詰めて送った。町まで送りに行って来た。まだまだどっさりあるので、客人にもらいに来てもらった。高菜漬けを漬けられるというので、洗っておいた高菜もどっさりどっさり。ご主人様の方がベジタリアンらしい。それがすんだら里芋の皮剥きをした。それがすんだら、また庭の小径周辺の草取りをした、根気よく根気よく。6時半になるまで。溜まった草は籠に積み上げて、畑の片隅の有機肥料造成所に運んで行った。あとからは寒くなったので、ジャンパーを着込んだ。

長いこと外に出ていたので目が痒い。花粉症の薬は朝夕飲んでいるので、鼻水は垂らさずにすんだ。畑にはまだ各種野菜が残っている。食べずに捨てるのは忍びない。

 

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それもこれも胸に納めておだやかにしていていいのかもしれない

2018年03月23日 10時24分55秒 | Weblog

今日は風もない。おだやかである。春の日が静かに射している。畑には菜の花がゆったりゆったり揺れている。空にも雲がない。晴れ渡っている。黄蝶がそこをひらひらと飛び回って遊んでいる。遊んでいるとしか見えない。なにか重大なことをしているというふうには見えない。そういう衒いは見えない。それでいいのだろう。ことさらに存在の意義や意味といったものを取り出して来ないでいいのかもしれない。黄蝶は、なにごとのアピールもしてこない。遊んで遊んでいていいのかもしれない。世の中に向かって、人間がするようなアピールなんかするものじゃない、のかもしれない。それもこれも胸に収めて、おだやかにしていていいのかもしれない。

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春の嵐になった日にわたしはたまたま筑後川の長い長い橋を渡っていた

2018年03月23日 10時07分38秒 | Weblog

最上川のみにはあらずさかまくは 春の嵐の筑後川渡る   薬王華蔵

最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも   斉藤茂吉

この歌がずっと耳にあった。此の歌は高校生の頃の国語の教科書で習った。そのときにわたしの胸の最上川にも、逆白波が立った。それを覚えている。此の歌は叙景歌である。抒情歌ではない。でも激しくわが情感を打ってきた。吹雪いているので、これは季節は冬だろう。秋遅くでもいい。宵が迫ってきている。ここを茂吉が歩いている。襟を立てて帽子を深々と被ってのろのろと。その様が浮かび上がって来る。わたしも二度この最上川の土手に立ってみたことがあった。そしてやはり茂吉をそこに立たせてみた。

春の嵐になった日にわたしはたまたま九州筑後川の長い橋を渡っていた。そこから川面に逆立つ白い波を見た。茂吉の最上川もさぞさぞ逆巻いているだろうと思った。

歌というのは、そこで飛沫(しぶき)を上げているものである。その歌でなければならない飛沫を。激しければ激しいだけ、それが読者にも激しく落ちて来る。このわたしの歌は、しかし、それほどの飛沫を上げてはいないようである。飛沫は風を受けてそれに逆らって立ち上がる。風を、だから、吹かせてあげねばならないのだが。

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「あなたに対して極悪の鬼になったのは、わたしが本来仏だったからなのよ」だなんて

2018年03月23日 09時43分22秒 | Weblog

「極悪の鬼になれるは仏かも」などとあなたはときおり危険       薬王華蔵

鬼ヶ島にいる極悪の鬼を退治した桃太郎は意気揚々として凱旋することができる。極悪の鬼を退治すれば極善の者にもなれる。とすれば、極善の者になるためには極悪の鬼が欠かせないということだ。だったら? だったらその極悪の鬼は、そもそもにおいて、仏だったのではないか。そこを潜らせてあげたのだから。そこにいて摩擦を加えてあげなかったならば、摩擦熱もそこから溢れ出すまぶしい光も無縁だったのだから。人は、人を仏にするために、鬼と化すことがある。その時にはそれは決して仏とは見えていない。そこが大事になる。仏はあくまでも隠れていなければならぬ。そしてその人が其処を通り抜けてしまったときに、「おらんおらんばあ」をして見せてくれる。でも、「わたしがその仏よ」などというのは危険思想である。わたしはあくまでも鬼でなければならぬ。

いやいやこうしてみてくると、この世は仏だけかもしれない。後になってみれば、「嗚呼、あの人もわたしの鬼の役目を演じていてくれたのか、すまなかったなあ」ということになる。現れた鬼を足の下に敷いてわたしが立つことが出来たのである。鬼になって下さった仏さまに相済まぬ。足の下に敷いて踏みつけたことが申し訳がない。過ぎてみれば、悪道非道の悪者、鬼もみな、わたしをごしごし磨かせるための砥石だったのかもしれぬ。

此処はユーモアたっぷりにカップルの話として短歌に登場してもらいました。夫婦喧嘩の嵐が過ぎてからにしか、しかし、この台詞は吐いてはいけないだろうなあ。「あなたに対して極悪の鬼になったのは、わたしが本来仏だったからなのよ」だんて。

 

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