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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

苦しみの量=よろこびの量

2016年02月14日 15時34分31秒 | Weblog

読んでいる本に「深く苦しみ深く悩むから、よろこびも深くなる」と書いてあった。目が止まった。だからといって、深いよろこびを得たいがために、わざわざ苦しみを深くはしたくない。深く苦しまざるを得なくなった場合のことだろう。深く悩んでそこで終わらない。その後に深いよろこびがついてくる。ここで浮かばれるのである。波の下から這い上がってふうと息が付ける。

深く苦しめる人、深く悩める人はたしかにいるようだ。そういう人はやはり対応力対応性が強靱である。神はその人に、その人に合わせた苦しみの量を、お与えになっているのかもしれない。この人はここまでだったら倒れないというところを見計らっておられるのかもしれない。バネが効かない人は、或いは、倒れる前に投げ出してしまうのかもしれない。

よろこびだけを深くするという便利があったら、その方がいいに決まっているが、よろこびというのは苦しみの量、悩みの量に見合った分なんだろう、おそらく。

これから推量するに、極楽という世界は苦しみがないという設定になっているけれども、苦しみがなくて楽しみだけが味わえるのだろうか、果たして。疑問である。5の苦しみに対して5の楽しみ。7の悩みに対して7のよろこび。もしかしたら、人間の感覚はそういう造りになっているのかもしれないではないか。すると、極楽もこの世と同じと言うことになる。

地獄もそうだ。苦しみばかりの世界があり得るのだろうか。相対の世界を、われわれは生きているのではなかったか。比較とするよろこびがなくて、苦しみだけを体験し通すことが可能だろうか。(この世での楽しみが記憶として残っているのかもしれないが)

極楽も地獄も、塩と砂糖かもしれない。塩5に対して砂糖5.苦しみの量だけの喜びの量。とすると地獄も極楽もその本質は普遍である。

別の表現だと、右に5,左に5なのではないか。左右は写し絵になっているのではないか。右の鏡に映っているときにはよろこびとして映り、左の鏡にはそれがそっくり苦しみとして映っている。そもそも苦も楽も実像ではない。虚像である。実態はないのだから。

そういうふうに感覚が写し取っているだけである。これは空の哲学。だから、右手だけ、左手だけに振り回されるなと説いて戒めている。

水面下の潜水能力がないと深くは潜っていけない。苦しみの底へ辿り着くことはできない。浮かび上がってしまう。

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だから、潜水能力には肺活量がよほどしっかりしていなければならない。悩みを悩む能力、苦しみを苦しめる能力。悩んだだけ肺活量が増大する、苦しんだだけ肺活量が増大をするということになっているのかもしれない。この分量だけよろこびを吸い込めるようになっているのかもしれない。

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均衡・バランスの調整法さえ知っていれば、何処へ行っても安定をした生活が送れるのかも知れない。バランス棒だけを上手に扱って、綱渡りができるのかもしれない。

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仏教は中庸を教えている。極端を避けるやり方だ。極端に堕ちない傾かないということだ。苦しみで以て喜びを調整するし、よろこびで以て苦しみを調整する。

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肉体の食事・魂の食事・イノチの食事

2016年02月14日 09時47分31秒 | Weblog

おはようございます。曇り空をしています。いまにも雨が降り出しそう。さぶろうの朝ご飯は8時。納豆をのせた白ご飯でした。これに白菜の味噌汁。白菜の漬け物。果物は輪切りにしたネーブルを頂きました。(ここまでの食事は胃袋の食事です。肉体のさぶろうがこれで満たされます) いつものようにヒラリー・ハーンのヴァイオリン名演奏を聴いています。これで魂も満腹します。こころの食事は在家仏教誌の読書。情感(エモーション)の食事は窓近くへ飛んで来る冬鳥との交歓会です。肉体・こころ・情感・魂(ソウルとスピリット)のさぶろうを主宰している主宰者は、静かな瞑想をしています。これで宇宙の主宰者からイノチが活動するための必要電力・パワー・エネルギーが送電されてきます。これで大空のような安らぎに満たされます。

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後はとにかくごろうじろ

2016年02月14日 03時13分50秒 | Weblog

おい、さぶろう。なんだ、さぷろう。なあ、最後にもう一花咲かせようじゃないか。おお、そりゃぁいいねえ。いいねえ。どおんと一発、大花火を打ち上げようじゃないか。いいねえ。芸者衆をあげてどんちゃん騒ぎといこうじゃないか。乗った! ささぶろうが真夜中にひとりで遊んでらあ。打出の小槌を持って来い。アラジンのランプを盗んで来い。どこでもドアにウインクしてみろ。可能性がまるっきりない訳じゃない。びっくりぽんということもある。どおんと大船の宝船に乗ってみよう。大黒さんの宝船だぞ。さすがだ。大物さぶろうの真骨頂だ。囃し立ててみる。見ろ、たちまち明るい未来が開けて来たじゃないか。後はとにかくごろうじろ、だ。

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思い当たるフシが見つからない

2016年02月14日 02時43分19秒 | Weblog

こどもたちからバレンタインチョコならぬバレンタインウイスキーをもらった。例の「竹鶴」を。ふむふむだ。チョコはまるっきり食べられない。ほかの誰からも届かない。そりゃそうだろう。このさぶろうにプレゼントしたところで無意味であるから、誰もその気を起こすものはいない。この当たり前に妙に納得する。そんなに無意味な男なのか。そんなに無意味な男である。この事実だけが居座って動かない。大岩のように。退けて転がすことはできないか。できない。ハンマーで思い切り叩き割ることはできないか。そんな大力も残ってはいない。この世にこころやさしい女性はいないのか。いない。いても、さぶろうに目をくれるほどの酔狂な女性はいない。一巻の終わりじゃないか。そうだ。まあこの間にしこたまいい目を受けてきたんだから、この現実を受け入れようじゃないか。さぶろう、目を白黒させる。思い当たるフシが見つからないのか。見つからない。

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「さみしいか」「さみしい」

2016年02月14日 02時02分38秒 | Weblog

真夜中である。暗い。静かだ。村里は昼間も静かだけど、夜になるといっそう輪をかけて静かになる。物音はみな吸い取られてしまっている。ときおり、貨物列車だろう、鉄橋を長々と渡って行く。それが冬の川面にいかにも寒そうに響く。ここから4kmも離れているのに。さぶろうは尿意に催されて目を覚ましてしまった。やれやれだ。深呼吸をしてみる。腹式呼吸をしてみる。わざと大きく腹をふくらませてみる。お腹が鰻のように鳴く。それからつんつるてんの禿げ頭を手の平でさすってみる。つるつる滑る滑り台の音がする。「おい、さぶろう」と呼び掛けてみる。「なんだ、さぶろう」と応えが跳ね返る。呼びかけたのも応えたのも同じ人物である。「さみしいか」「さみしい」

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