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読んでいる本に「深く苦しみ深く悩むから、よろこびも深くなる」と書いてあった。目が止まった。だからといって、深いよろこびを得たいがために、わざわざ苦しみを深くはしたくない。深く苦しまざるを得なくなった場合のことだろう。深く悩んでそこで終わらない。その後に深いよろこびがついてくる。ここで浮かばれるのである。波の下から這い上がってふうと息が付ける。
2
深く苦しめる人、深く悩める人はたしかにいるようだ。そういう人はやはり対応力対応性が強靱である。神はその人に、その人に合わせた苦しみの量を、お与えになっているのかもしれない。この人はここまでだったら倒れないというところを見計らっておられるのかもしれない。バネが効かない人は、或いは、倒れる前に投げ出してしまうのかもしれない。
3
よろこびだけを深くするという便利があったら、その方がいいに決まっているが、よろこびというのは苦しみの量、悩みの量に見合った分なんだろう、おそらく。
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これから推量するに、極楽という世界は苦しみがないという設定になっているけれども、苦しみがなくて楽しみだけが味わえるのだろうか、果たして。疑問である。5の苦しみに対して5の楽しみ。7の悩みに対して7のよろこび。もしかしたら、人間の感覚はそういう造りになっているのかもしれないではないか。すると、極楽もこの世と同じと言うことになる。
5
地獄もそうだ。苦しみばかりの世界があり得るのだろうか。相対の世界を、われわれは生きているのではなかったか。比較とするよろこびがなくて、苦しみだけを体験し通すことが可能だろうか。(この世での楽しみが記憶として残っているのかもしれないが)
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極楽も地獄も、塩と砂糖かもしれない。塩5に対して砂糖5.苦しみの量だけの喜びの量。とすると地獄も極楽もその本質は普遍である。
7
別の表現だと、右に5,左に5なのではないか。左右は写し絵になっているのではないか。右の鏡に映っているときにはよろこびとして映り、左の鏡にはそれがそっくり苦しみとして映っている。そもそも苦も楽も実像ではない。虚像である。実態はないのだから。
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そういうふうに感覚が写し取っているだけである。これは空の哲学。だから、右手だけ、左手だけに振り回されるなと説いて戒めている。
9
水面下の潜水能力がないと深くは潜っていけない。苦しみの底へ辿り着くことはできない。浮かび上がってしまう。
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だから、潜水能力には肺活量がよほどしっかりしていなければならない。悩みを悩む能力、苦しみを苦しめる能力。悩んだだけ肺活量が増大する、苦しんだだけ肺活量が増大をするということになっているのかもしれない。この分量だけよろこびを吸い込めるようになっているのかもしれない。
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均衡・バランスの調整法さえ知っていれば、何処へ行っても安定をした生活が送れるのかも知れない。バランス棒だけを上手に扱って、綱渡りができるのかもしれない。
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仏教は中庸を教えている。極端を避けるやり方だ。極端に堕ちない傾かないということだ。苦しみで以て喜びを調整するし、よろこびで以て苦しみを調整する。