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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

僕はダンスができない

2015年08月28日 19時56分35秒 | Weblog

僕はダンスができない。やったことがない。やる前に、できないと決めているから、やらない。女に人とダンスをするなんて面倒で仕方がない。恥ずかしくてならない。これが僕だ。もてるわけがない。で、もてなかった。女の人とはまるで縁が無かった。それでよかった。それでいいと思っていさえすれば、爽快だった。そっちで解決しなければならない欲望が薄かったのだ。あっさりしたもんだった。いまもダンスはできない。そのチャンスもないしその場も廻っては来なかった。そしてもう僕の人生は終末期を迎えていた。

 

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身に染み渡る

2015年08月28日 19時42分48秒 | Weblog

監獄を出でてじっとふるえて噛む林檎 りんごさくさく身に染みわたる    北原白秋

白秋は姦通罪で入獄。そして出獄した。白秋はまだ20代だった。夫のDVで苦しんでいた人妻の俊子を彼は救い出したかった。でも、罪を得た。姦通罪だった。白秋はこれからの活躍をフイにして、見て見ぬ振りをしておけばよかったのに、俊子に人間の愛情を注いだ。世間は冷たい。そんな事情など理解をしてはくれない。彼は寒さでしばらく震えているしかなかった。林檎を噛んだ。林檎だけが味方になって身に染み渡ってきた。

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生きているってどういうことなんだ?

2015年08月28日 19時26分59秒 | Weblog

われわれは生きている。ではどうしたら、生きていることに胸を張れるのか。誇りにできるのか。人に対してではなくて己に対して。今日を生きた、それにはどんな称賛を浴びせられるか。そんなものは、なんにも要らないのかも知れないし、やってもいないかも知れない。死んでいたらどうだったのか。生きていることと死んでいることにはどんな相違があるのか。相違なんてなんにもないのか。だったら、死んでしまっていてもいいのか。死ぬのが嫌で、恐くて、たまたま死なないですんで、無事に生き延びている。死なずに生き延びたことにどれほどの違いがあったのか。その間に、何をしたのか。それをしたら、生き延びたことになったのか。満たされたのか。草むらで頻りに虫が鳴いている。気温からするともう秋だ。夜風がひんやりするので窓を閉じてしまった。台所のテレビは野球を放映している。ホームランだの三振だのと大声でアナウンサーが実況中継をしている。

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ふたたび弟を見舞う

2015年08月28日 19時07分28秒 | Weblog

雨は降らなかった。それで、サイクリングに出た。弟を見舞いに行った。3時に出て6時に戻って来た。片道12km+αだった。弟の顔色はよかったが、また少し痩せていた。しばらく仏教の話をした。往き道帰り道に月見草、百日紅、布袋草(ウオーター・ヒヤシンス)、オシロイバナを見つけて、佇んだ。帰宅した途端に雨がバラバラバラッと降り出した。

 

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ダリアは紅(あか)しダリアは紅し

2015年08月28日 14時48分09秒 | Weblog

君と見て一期(いちご)の別れするときもダリアは紅(あか)しダリアは紅し     北原白秋

一期の別れをした。愛しい人と。その時いっしょに見ていた花があった。ダリアだった。そしてわたしは監獄の生活に入った。もうその人と会ってはならない。悲しみに暮れる獄房の庭にも、ダリアが咲いている。どちらも変わることなく火のように紅(あか)い。わたしの君を思うこころもこのように変わることなく明々と燃えているのだ。

この恋心も常に住(とど)まって不変である。恋は不生不滅のエネルギーをも籠めうるものなのか。

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われわれは生ずることも滅することもない

2015年08月28日 14時32分36秒 | Weblog

妙法蓮華経のこの陀羅尼品の説かれたとき、六万八千人の人が一切のものが生じることも滅することもなく常住不変であることと認め確信を得た。

陀羅尼品が説かれているのを聞いていた68000人の人たちが、「不生不滅法」の法三昧に入ったというのである。現象面では生じて滅している一切の者が、その実は生じることもなく滅することもない。そういう非現象面を持っているということを信じ得たというのである。われわれの一喜一憂はすべて現象面の出来事によって起こっている。ところが<一喜一憂をしなくてもいい世界がある>というのだ。これが不生不滅法の法三昧である。さぶろうもまた<現象をしない世界><常住不変の世界>に憧れる。

そんなものがあったのか。それを示唆して来るのが法華経の魅力である。

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これから弟のところへ

2015年08月28日 14時18分49秒 | Weblog

いまにも雨が降って来そうな。もしかしたら、サイクリングにはいけないかもしれない。まあいい。休憩日にしてもいい。筋肉たちも鍛錬鍛錬では疲労が蓄積しているだろう。と、怠け者のさぶろうは怠けていい理由を考えつく。

いましがたお昼ご飯を食べた。デザートに昨日客人から頂いた高級プリンを楽しんだ。それからおもむろに後片付けをした。使ったお茶碗、お皿を洗って拭いて乾かして食器棚に収納して。

弟のところにも行って来たい。今日は、行き帰り1時間として、車で行こう。その後は農作業をしたい。雨になっていなければ。農作業と言っても種蒔きである。ホウレン草の種をまだ蒔いていない。

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守り抜くという守護者たちの神呪

2015年08月28日 13時52分09秒 | Weblog

ざれ まかざれ うっき もっき あれ あらはて ねれて ねれたはて いちに

いちに しちに ねれちに ねりちはち

これも妙法蓮華経の陀羅尼品にある陀羅尼である。これは勇施菩薩の陀羅尼。薬王菩薩のそれよりずっと短くなっている。この陀羅尼を彼は釈迦牟尼世尊の前で披露してみせて感謝と称賛を浴びる。ということはこれは釈迦牟尼世尊がお認めになった陀羅尼であり、その陀羅尼にはそれだけの力が籠もっているということである。

あり なり となり あなろ なび くなび

この陀羅尼はさらに短くなっている。毘沙門天が今度はお釈迦様の前に進み出てこの陀羅尼を唱えて法華経の行者をお守りすると誓った。お釈迦様はこれを称賛された。

あきゃね きゃね くり けんだり せんだり まとうぎ じょうぐり ぶろしゃに あっち

これは四天王の一人である持国天王が唱えた陀羅尼である。

いでび いでびん いでび あでび いでび でび でび でび でび でび

ろけ ろけ ろけ ろけ たけ たけ たけ とけ とけ

これは羅刹女と鬼子母神の陀羅尼である。羅刹とは鬼である。鬼子母神にいたってはこどもを99人も殺して我が子に食べさせているほどの凄まじい悪女であるが、お釈迦様に帰依をした後はこの通り。その凄まじい悪の力を反転させて善の力、利他の実践に換えている。彼女たちは、侵害するいかなる敵からも、悪病からも、行者を守り抜くと言って誓ったのである。

ことば。言葉には神がこもる。ことばのうちには神の意志がこもる。神とは仏も含めて神(すぐ)れた者、卓越した者の謂だ。ゆえにそのことばの韻律、音の響き、詩偈はパワフルである。ことばはそもそも神の言葉であった。ゆえに真実で力強かった。その力を真似て人間が人間の言葉を使い出した。従って人間のことばにも力が籠もっているはずである。相手は是によってこころを揺り動かされる。

 

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音韻のパワー

2015年08月28日 12時37分38秒 | Weblog

妙法蓮華経の終わりの方に「陀羅尼(だらに)品(ほん)第二六」がある。陀羅尼は神呪、真言、マントラである。仏界語である。仏界語だから翻訳が不可能である。それで伝わるのはその音だけである。音韻はパワーを内包している。この陀羅尼の音韻のパワーを浴びると法華経の行者はたちまち敵から守護され正しく引導される。お釈迦様の前に、薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天王、持国天王、羅刹女、鬼子母神が現れてそれぞれの陀羅尼を唱える。これはまず初めに立った薬王菩薩の唱えた陀羅尼である。

あに、 まに、 まね、 ままね、しれ、 しゃりて、 しゃみゃ 、しゃび、 たい、 せんて、 もくて、 もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび しゃえ あしゃえ

あぎに せんて しゃび だらに あろきゃ ばさい はしゃびしゃに ねびて あべんたらねびて あたんだはれしゅだい

うくれ むくれ あられ はられ しゅきゃし あさんまさんび ぼっだびきりじって だるまはりして そうぎゃね くしゃね

ばしゃばしゃしゅだい まんたら まんたらしゃやた うろた うろた きょうしゃりゃ あしゃら あしゃやたや あばろ あまにゃ なたや

陀羅尼を唱えて法華経の実践をする行者たちが守護され正しく導かれていくので、お釈迦様は薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天、羅刹女+鬼子母神に感謝を述べられる。陀羅尼品はそういうチャプターである。

いかにも非科学的に聞こえてこようが、科学的なものだけが真実だということでもないのである。薬王菩薩の利他行になりきって、これを唱えたら我が身の総身に力が溢れてくるという人もたしかにいるのである。それを直流電流にして力を失った人たち、困っている人たち、病んでいる人たちに無償送電する発電所的人物だって、たしかにこの世のところどころにはいるのである。現代人のアニメはこの役割を果たしているのかもしれない。

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大嫌いが大好きになる

2015年08月28日 12時08分04秒 | Weblog

若い頃は大嫌いだったのでずっと避けて避けて来たのに、この変わりよう。苦瓜がおいしい。苦いところがおいしい。

苦瓜は我が家にも実っている。青いのと、白いのと。味は変わらない。朝昼晩食べても嫌にならない。食卓にないとさみしい。炒め物にしてもらうと一皿も二皿も空けてしまう。どんな栄養があるのかは知らない。

ちょっと収獲を遅らせたのがあった。輪切りに切ってみると中がもう真っ赤に変色していた。赤は「小鳥さん、もういいですよ、わたしを食べて下さい」の合図らしいが、人間のさぶろうは、真っ赤なのはさすがにあまり食べる気にはなれない。

<大嫌いな過去>もここまで<大好きな現在>に変質変貌するのである。さぶろうが元からいい加減な性質だからかもしれないが。

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