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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

弟を見舞って来よう

2015年08月25日 13時54分46秒 | Weblog

どれ、弟を見舞って来よう。車輪の大きい27cmの自転車を駆って。帰りの坂道を計算に入れれば、往復2時間半~3時間、或いはそれ以上をみておかねばなるまい。へたばって休憩を幾度か入れることもあり得る。どうかな、台風の余塵はすっかりおさまったやら。雨が降り出してくることはないか。濡れてもいいように着替えをリュックに詰めておこう。いまのところ照りつける日差しはない。

旅先の宮崎神宮で病気平癒健康回復のお守り札を買って来たから、これを届けるとしよう。弟はでも、れっきとした浄土真宗得度者。そういうものに頼らないでも得心をしていると言うかも知れない。旅に出たことは内緒にしておいた。旅に出られる兄を羨むかもしれないと思って。まあいい。これも白状をしよう。我が家の上品な無花果を食べさせてやりたいが、彼は術後も日ごとの糖分調整をしているから、こっそりというわけにもいくまい。

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あてもなく

2015年08月25日 13時42分12秒 | Weblog

踏み分ける萩よすすきよ    種田山頭火  

昭和2年から翌3年にかけて山頭火は山陽道、山陰道、九州、四国へ出た。当てもなく。当てがあったら雲水ではあるまい。当てがなければわれわれは、逆に、旅には出られない。山頭火の場合は、踏み分けてくれるのは山道の芒であり里道の萩である。これに惹かれて行く道を選ぶ。萩のひとむれが向こうに見えれば、走って行ってそこにしばらく流憩し、峠から芒尾花が呼びつければ、この中に寝て、行く先の腹を据えてみる。

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果てもない旅の

2015年08月25日 13時23分28秒 | Weblog

この旅 果てもない旅のつくつくぼうし   種田山頭火

山頭火、本名は種田正一。山口県防府市の生まれ。大正14年2月、出家し、曹洞宗の寺で得度した。しばらく観音堂の堂守をしていたが翌年には行乞流転の旅に出た。行雲流水の雲水となって。放てないものを放とうとして。

われわれはものを持っている。雲水は持たない。鉄鉢(てっぱつ)の他にはものを持たない。仏道修行は無一物の修行である。捨てて捨てて、放って放って行く。われわれのような物持ちにはこれができない。真似ができない。できないからこそ、これができた人に憧憬や尊敬を覚える。われわれ物持ちは果ての無い旅になどは出られない。そこで夏の終わりを鳴くだけのつくつく法師にはなれない。もののあるところ、家族のあるところ、執着のあるところに戻って行かねばならない。

捨てられぬもの映したり夏の濠   李白黄

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へうへうとして

2015年08月25日 12時51分33秒 | Weblog

へうへうとして水を味ふ   種田山頭火

彼の自由律俳句はこんなに短い。こんなに短いのに読める。己の生き様と重ね合わせているからだろう。肩の前後に重たい荷物を負って人もまた歩いているのだ。それが重たいのだ。軽くしたいのだ。山頭火もそうである。俳句をものして幾ばくか荷を軽くしているのである。そこで多くの人がこの行乞の男に惹かれる。彼は己を解放して飄々とした風になる。水は谷水である。これが実においしいのだ。作者ばかりか読者にもおいしいのだ。執着にがんじがらめになって生きている己を、わずかに解放させてくれるからである。

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炎天をいただいて

2015年08月25日 12時31分05秒 | Weblog

炎天をいただいて乞い歩く   種田山頭火

いただけるものをいただく。これが行乞である。山頭火はある商家の店先で奇特なおばば様の慈悲を受ける。大きな握り飯にあずかったのである。梅干しがはいっている。匂いがする。空腹に匂いが滲みてくる。ここでがつがつして食べるわけにはいかない。彼は1町ほども歩き去ってそこでムシャムシャ食べ尽くした。水は川の水ですむ。一箇では足りない。体調が戻ってきているらしい。彼は引き返して来てまたこの商家で般若心経を読経した。聞こえがしの大声で。おばば様はまた同じように握り飯をこしらえて彼に与えた。そういうことがあった。人の情けを無理強いしたところがあったかもしれない。でも、元気が涌いた。夏の日が射している。大空の炎天も湧き上がる入道雲も、彼は己の背中いっぱいいただいた。これも大正15年の作。50代の中半にさしかかっていた。

(これはさぶろうのあてずっぽうです。史実に基づいているわけではありません。前後を想像してこうやって具体化してはっきりさせると句が浮かび上がってくるような気がします。これがさぶろうの読み方です)

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しとどに濡れて

2015年08月25日 12時12分19秒 | Weblog

しとどに濡れて これは道しるべの石    種田山頭火(1882~1940)

大正15年4月、作者は行乞の旅の途中にある。小径のかたわらに古ぼけた道しるべの石が立っている。苔がしてはっきりとは文字が読みにくい。その上、昼間の雨に濡れてしとどに雫している。見上げると伸びきった杉の枝からぽとりぽとり水滴も落ちてきている。目指す村はここを通ればいいはずである。彼は胸を撫で下ろしてここで一息ついた。するとたちまち滝壺のような孤独が深まってきた。右の小径を辿ってもそこも、長く糸を引くような己のこの惑乱は断ち切れないであろう。左の山道に分け入ってもその先に明瞭な解決が見いだせるあてがない。脚絆に滲みていく芝草の雨露。

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台風一過

2015年08月25日 11時48分09秒 | Weblog

台風が過ぎて行きました。ひとまず落ち着いたかとおもっているところへ、吹き戻しが始まりました。竹林が薙ぎ倒されていきます。畑の農作物も普段の姿勢を大きく崩されつぃまいました。梨、葡萄、無花果などの果物農家の被害が心配されます。我が家の納屋の屋根(スレート葺き)が一部吹き飛んでいます。ほかにも、二階の壁板が風に煽られてもぎ取られています。かなりの風が吹き荒れたことが分かります。これから、しばらくは修理修復の作業をしなければなりません。皆様方のお家庭ではいかがでしたか。

 

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