さ、やすみます。いい一日でありました。わが持ち分に余るほどでありました。
鉢(はち)の子に菫(すみれ)たんぽぽこきまぜて三世(みよ)の仏にたてまつりてな 大愚良寛
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あんまりいい歌なのでまたここに引きだしてきてしまいました。鉢の子とは乞食をするときに両手に握っている受け皿、受け鉢のことである。ここに野に咲いている美しい菫や蒲公英を混ぜ込んでいよいよ美しくして、過去現在未来を通してわれら衆生を守り導いていてくださる仏さま方にお届けしたいものだなあ。菫も蒲公英も野に咲くわがこころ、こころの花をさしていることはいうまでもない。
この心 天津空(あまつそら)にも花そなふ三世(みよ)の仏に奉(たてまつ)らばや 道元禅師
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天津空は大空のことである。大地にも大空にも美しい花を供えようとする我が心、祈りの心、梵我一如の心が誰にでもあるではないか。この我が心をこそ過去現在未来にわたる三世の仏たちにみそなわしめたいものであることよ。
この歌をこのように読んでみたのだが、適格ではないかもしれない。さぶろうは禅の修行者ではない。覚りを開いているわけでもない。独り合点の当てずっぽうである。
草の庵に ねてもさめても 申すこと
南無釈迦牟尼仏 あはれみ玉へ 道元禅師(1200~1253)の和歌集「傘松道詠」より
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「あはれみたまへ」の目的語は無論「衆生」であろう。無明煩悩に苦しんでいる衆生に、どうか釈迦牟尼仏よ、大悲をかけてお救いくださいと願いを立てているのが僧の身である。「寝て覚めて、申している」その主語は道元禅師その人である。寝ても覚めても、生涯をかけて、利益衆生に邁進するのが仏道修行者である。「草の庵」とは草庵、つまり僧堂のことである。「南無」は畢竟依の姿勢である。
我が身のことはとうに忘れられている。
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草の庵に 寝ても覚めても 申すこと
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 大愚良寛(1758~1831)
江戸時代後期の良寛禅師は曹洞宗の開祖道元禅師を敬って敬っておられた。その歌われる歌も師の歌われる歌をそのまま引き継がれたところがあった。阿弥陀仏は釈迦牟尼仏の説法の中に登場してくる衆生救済の仏の名である。
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称ふれば 仏も我も なかりけり
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 一遍上人(1239~12289)
鎌倉時代中期の僧、時宗の開祖であった一遍上人もこのように歌われた。衆生済度は決定しているとの夢告を受けた後は、踊り念仏を民衆に広めながら諸国を遊行されたので、遊行上人・捨聖(すてひじり)とも称された。
念仏を称えていると称えているわたしと称えられている仏が一つに重なってしまうというのである。
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人を見るも 我が身を見るも こはいかに
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
平安末期の天台座主 慈円僧正(1155~1225)の歌集「拾玉集」より
南無阿弥陀仏を称えていると、どうしたことか、人も我もそもそもが南無阿弥陀仏を行じているというのである。人間は本来的に阿弥陀仏に帰依した生き方暮らし方をしている。それよりほかに行じようがないという達観である。
こんばんは。夜になったら、さすがに、気温が下がっています。車の窓を開けていれば、冷房はしなくてすみました。お客さんといっしょに、中華料理屋へ行き、久しぶりでみんなとにぎやかにお酒を飲みました。年を取っていると、しかし、胃袋がすぐにいっぱいにふくれてしまいます。もう、戻って来ました。これから庭先の暗闇で花火を楽しんだ後、元気なみなさんは二次会をするそうで、張り切っています。ヱビスビールもわんさか買い込んできました。アルコールを控えるようにと医者の指示を受けている僕は、もういい加減で列を離れます。
失礼失礼失礼。世の中、見渡していると、美男と美女の組み合わせばかりでもないんだなあ。ちぐはぐな組み合わせもあるんだなあ。みんなしかし恋をしていっしょになっているんだよね。どこに恋をしたのかしらん、などと外野席は思ってしまう。
ということはそれで醜男(ぶおとこ)と醜女(しこめ)の組み合わせも数少なくなくなるということか。失礼失礼失礼。
人間、顔じゃないんだよなあ。そういうことなんだなあ。美男もたくさんいるし、美女もたくさんいるよ。それはそれでいいんだけど、醜男にはこころのやさしさが隠れているし、醜女にはこころの美しさが籠もってもいる。
そうだよ、だから、表だけでは見えてこないんだよね。痘痕(あばた)も靨(えくぼ)。恋をしたら痘痕は消える。内面の魅力に引かれるということもある。
失礼失礼。でも、まわりから見るとそれがちぐはぐに見えてしまうこともあるのだね。
今日は暇に任せて、この醜男さぶろうは無用な観察をしてしまった。
夏の夜は まだ宵(よひ)ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿(やど)るらむ
清原深養父(36番) 『古今集』夏・166
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月はいったい雲の何処に宿を取っていたのだろうか。まことに短いかりそめの宿であったろう。夏は日が長い。ということはその分、夜が短いことになる。暗くなって宵(午後9時ほどまで)になったかと思うとすぐにも夜明けになってしらじらとしてくる。しらじらとしてくれば月の所在はもはや見定められなくなる。うかうか寝もやれないことだ。(さぶろう訳)
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純然と叙景歌だろうか。それともいとしい人と一夜をともにしているのだろうか。いつのまにか夜が白々明けてきて、別れの時が近づいてくる。そういう恋心を籠めているのだろうか。叙景と言いながらそこにすぐにこころが寄り添ってくるから不思議だ。
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すでに立秋となった。これからは日が短くなってものを思う夜がその分長くなっていく。
我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚 我於無量劫 不為大施主 普済諸貧苦 誓不成正覚 仏説無量寿経「重誓偈」より
がこんちょうせいがん ひっしむじょうどう しがんふまんぞく せいふじょうしょうがく がおむりょうこう ふいだいせいしゅ ふさいしょびんぐ せいふじょうしょうがく
我は世に超えし願を建てたり 必ず無上道に至らん 斯(こ)の願を満足せずんば 誓って正覚を成さざらん 我は無量劫に於いて 大施主と為(な)って 普(あまね)く諸々の貧苦(びんぐ)を済(すく)わずんば、誓って正覚を成さざらん
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本願寺の翻訳文ではこうなっている。
われ世に超えし願をたて たぐいなき道さとらなん このねがいもしみたざれば 誓いてさとりえざらまし われはてしなき末かけて 大きめぐみの主となり 貧しき群(むれ)をすくわずば 誓いてさとりえざらまし
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重誓偈は大無量寿経上巻の中にある賛歌である。法蔵菩薩が師の仏の世自在王仏の前で讃仏偈を表白された後、四十八の願を建てられ、さらにもう一度その四十八の願の要旨を十一偈の歌詞にして宣べられた。それがこの重誓偈である。こうしてこの本願は成就して法蔵菩薩は阿弥陀如来となられた。
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今日さぶろうがこの重誓偈をここに引用したのは、これからさぶろうもまた法蔵菩薩となってこの誓いを表明するにちがいないと思ったからである。さぶろうだけではない、すべての衆生がそうするに違いないのである。行き着く先を示してもらったのだから、この道を踏襲すればいいのである。そして「必ず無上道に至る」という目的を達成して行くのである。この上もない道とは、仏の世界ということである。仏教は前人が成仏するという教えであって、これを誓って進んで行くのである。そこに行き着くまでには無量劫という果てしない時間がかかるだろうが、行き着き先が見えている旅である。安心をしていいはずである。
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「超世の願」とは「幾世にもわたって」「この世を幾つも跨いでいって」ということか。「大施主」とは主体的実行者ということだろう。「貧苦(びんぐ)」とは貧しく苦しい人たちの謂。
よほどよほど僕は非社会的な人間らしい。社交が苦手だ。人の中にいるのが疲れる。そこに積極的な楽しみというものを見出し得ない。もじもじして、そのうちに蟹の穴に引き下がっていたくなる。人々は仲良くしてお喋りをするけれども、どうもこの中に居るのに違和感が感じられてしまう。もしかしたら、そういう遺伝子が働いているのかもしれない。僕の母もそういう傾向の人であった。他所に行くのを嫌った。母の母、つまり母型の祖母もそういうところがあった。遠慮が過ぎた。人の愛情が素直に受けられなかった。母も祖母も人に世話になることをひどく気に病んだ。ともかく人の厚意を受けるというのが苦痛でならないらしく、そのため、世話のしがいがないと言われては親戚から疎まれることが屡々のようだった。この数日間、よく外出をしている。外出先で人に会うことになる。知っている人ではないくせに、それでも人の渦に飲まれて息苦しくなった。年を取るにつれてこの頑なさは激しくなっていくように感じられる。これは決して褒められたことではない。短所である。欠点である。どうにかしなきゃと思う。
おはよう。ようはお。うよはお。今日も猛暑日になりそうだ。西日本は昨日39度を超えた町もあったらしい。70年前には長崎に原爆が投下された。今週末には終戦記念日を迎える。
2才と1ヶ月の孫のこうたろうちゃんがべったりくっついていて、邪魔をして文字が書けない。