さぶろう、おまへ、どうしてこうも鬱々として暮らしているのか。暗い顔をしているのか。つまらないつまらないを連呼しているのか。それらはみなおまへをかがやかせるための砥石であったのに、砥石で己を錬磨しないどころか、この善意の意向とは逆向きに、落ち込んで恨んで悲しがっている。己のこの背反にまだ気がつかないのか。それもこれもみなおまへを明るくかがやかせるためであったのを、おまへは逆手に逆手にとって、暗がって来た。
今日は佐賀市の図書館は休館日だった。本を探す目的は達せられなかった。まあ、いい。今日でなければならないということはない。
晴れのち曇りの日。気温は上がらないですみそうだ。庭を行ったり来たりして黒揚羽がひらひら。台風で切れ切れに切れた三尺ササゲ豆の蔓がぶらんぶらんと姫林檎の枝から垂れている。
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さ、ともあれ、外に出て農作業にかかるとするか。秋野菜の種蒔きの。
諸仏救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力
しょぶつくせしゃ じゅうおだいじんづう いえつしゅじょうこ げんむりょうじんりき 妙法蓮華経「如来神力品」第21より
諸仏は世を救う者なれば 大神通力に住したまへり 衆生を悦(よろこ)ばさんが為の故に 無量の神力を現じたまふなり
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世の人々を救わんとしておられる諸仏は、(長い長い修行を経て今は)大神通の仏界に住んでおられます。世の生きとし生ける者をただただよろこばさんが為に、いま此処で量(はか)り知れないほどの神力を現じておられるのである。(さぶろうがこの世にあって日々をよろこんでいるのにはこういう次第がありました。)
はい、さぶろうと諸仏はこのように深い深い繋がりができていたのです。
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諸仏は、ただたださぶろうをよろこばさんとして、過去の無量劫の長い期間にわたって、無量の神力を現じ続けて来られたのである。
で、さぶろうに尋ねるが、お前、諸仏のこの深い深い、広い広い、高い高い思し召しを受け取って、今日の日をよろこんでいるだろうな? 諸仏の発揮された大神通を無にしてはいないだろうな? どうだ、さぶろう?
大欲得清浄 大安楽富𩜙 三界得自在 能作堅固利 真言宗経典 般若理趣経「百事の偈」より
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大欲は清浄を得べし (また)大安楽を(得て)富𩜙なるべし。(菩薩はみな)三界に自在を得てをれば、能く堅固の利を作(な)すべし (さぶろうのへんてこりんな読み)
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大欲とは大乗菩薩の悟りのことである。一切を肯定した悟りのことである。大欲は従って清浄を得て、堂々と安定しているのである。大欲は大安楽を引き入れてくるのでその境地がゆたかである。この我等が三界の中にも自由自在なる力をふるって、(三界の中の)衆生に対して揺るぎのない利他の行をばなし得るのである。 (さぶろうのいい加減な解釈)
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いやいや、難しい。素人には解せない。だから、都合のいいように自分勝手に解釈をすることになる。
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淤泥(おでい=汚泥 人間の場合は悪穢の無明煩悩)は汚れていて近寄るべきところではない。だから、ここを避けよという主張になる。だが、ここには衆生が暮らしている。菩薩がここへ近づかなければ衆生の救済(利他)はままならないことになる。菩薩は淤泥にも下りて行く。淤泥の中でも淤泥に染まらず清浄でありうるからである。白蓮のように。菩薩はしたがって淤泥を否定することはない。彼は淤泥に捕まらないのである。自由自在な活動ができるのである。だから彼はここにも大安楽を見出す。
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もともと生死も制限の中にはない。見る目も自由自在であっていいのだ。否定に否定を重ねなくともいいのだ。大安楽と大肯定の生死観であっていいのだ。
別嬪(べっぴん)さん。彼女は別嬪さん。擦り寄って行きたい。でも、そうすると嫌がられるに決まっている。こちらは老いぼれで、無力無能で、貧乏で、おまけによろよろで、おまけに全身脱毛症。おまけばっかしでまるっきり勝算なし。それでも彼女は別嬪さん。どうしよう。視界の中にとどめておきたい。仕方がない、10mの距離を置いて眺めていることにしよう。そしてちらりちらり。見て見ない振りをして見ている。ああ、美しいなあ。あでやかだなあ。彼女の美しさで辺りの風景までが明るくかがやいている。公園の合歓の木や百日紅の花、ちょろちょろ流れている小川、上空の白い雲までがこの別嬪さんに擦り寄っていって行くようだ。人は死んで行くというのに、この別嬪さんはどうだ。そんな匂いなんかどこにもないほどの明るさだ。
3回も食事したからバレてるよ 生春巻きとわたしが好きね 佐藤真由美
ネット上でたまたまこの歌を見つけた。作者のこともまるっきり知らない。会話体の短歌でとっても分かり易い。何が? 彼との関係が。いま、恋愛中。これまでいっしょに3回食事をした。つまりデートをしたんだね。で、あれこれのことが筒抜けになってきた。これは互い互いだろう。で、この女性には大いなる収獲があった。この人はわたしのことが好きなんだってことが。生春巻きは付けたし。彼女は勝利者気分だ。もちろん彼女もその気だ。いっしょにいるのが楽しい。でも、恋の駆け引きは銭の駆け引き。食事代はもう出さなくたってよさそうだ。人は好みで動いている。好きも嫌いも生春巻きも揚げ春巻きもそこら辺はいっしょたくりんだ。好みが合っているなら、あとは突き進むしかない。
ああ、楽しかった。読み解くのが楽しかった。こういう刺激をしてくれる短歌というのもあるのだ。
善悪の報に三時あり。一者(ひとつには)順現報受(じゅんげんほうじゅ)、二者(ふたうには)順次報受(じゅんじほうじゅ)、三者(みっつには)順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時という。 禅宗経典の「修証義」より
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現世の行いの善悪の報いを現世で受けるのが順現報受。現世の行いの善悪の報いを次の生で引き受けるのが順次報受。現世の行いの善悪の報いをあとあとに引き継いでいくのが最後の順後次受。とすれば「♪ 線路は続くよ何処までも ♪」のようだ。
「報われている」という場合には善業の報いを指しているようだが、「報いを受けろ」だとか「報いを受けた」などという場合には、悪業のそれのような響きがある。
この通りだと、現世があったり、次世があったり、次次世、次次次世、次次次次世があったりするので、塵も積もれば山となる式で、ど~んと一発一山(宝の山でも、負債の山でも)あてることもないわけではなさそうだ。
初めの善(或いは悪)の起源から推して、今が次次世くらいか、次次次次次次世くらいかはわからない。もうそろそろ一山当てる時期に来ているかも知れない。(悪の山だと、しかし、大変だ、逃げおおせることができるだろうかな)
しかし、確実なことは、現世で善の種蒔きをしておけばいいということだ。蒔かぬ種は生えぬ、からね。収獲の時が待たれる。大根や白菜の種の発芽は早いから、これは順現報受のようだ。
人を困らせたり嫌がらせしたりすることが悪。人のためを思って働いたり喜ばせたりすることが善。困ったことがある人には是が分かるだろう。人に喜ばせてもらった経験があれは是も分かるだろう。
「過分に頂戴いたしました」という時、この「分」は「わが取り分」「働きの俸給分」「善の報謝分」のことだろう。「余計に頂きました、お釣りをお返しします」の気持ちにさせられるときがあるものだ。長期に見るとみなバランスがとられているのだろう。
10ー10=0 10+10=20 この算数が禅宗の経典に応用されているところが面白かった。10の善ー10の善の報い=0(つまり使い果たしている) 10の善+10の善=20の善。まるで預貯金のようだ。さぶろうの今世の通帳の残高はどうなっているのだろう?
今日はお昼過ぎから佐賀市の図書館に出向いていくつもりだ。北原白秋の歌集を探して手にとって読んでみたい。本を手に取って歌を読めば白秋その人に会えそうな気がする。
車の後ろに修理した折り畳み式自転車を積み込んでいこう。あとで図書館周辺を、さしずめ若者にでも戻ったみたいに背中に小さなリュックを背負って颯爽とサイクリングしてみたら楽しそうだ。
帰ったらプランターに秋野菜の種蒔きを続けよう。いま此処で二十日大根(赤・白、ちょろ長)を種蒔いておいたら、はやばや9月の中半には食卓にのせられそうだ。楽しめることがけっこうあるではないか。
抵抗する力が尽きて死を迎える。死を迎えるまでは抵抗をする。苦悩する。じたばたする。のたうち回る。拒否を主張してやまない。死にたくない。生きたい。最後の一瞬までも生きたい。死んでしまっても生きたい。それほどに魅力のある生なのだ。価値のある生なのだ。
その生をさぶろうは今生きている。そうであるなら、それを最大限生かさねばならないのだ。あかあかと生かしてあかあかと耀かしておかねばならないのだ。では、そうしているか、さぶろう? さぶろうは問いかける。
それは、具体的にどうすることなのだ? あかあかと耀かせるにはどうしたらいいのだ? それをそうすればさぶろうの何処があかあかとなるのだ? 皮膚なのか? 眼球なのか? 脳細胞なのか? こころなのか? 霊魂なのか? 自己生命そのものなのか?
夏空が広がっている。紺碧の青空だ。あちらこちらには白雲も湧いている。まぶしいほどに明るい。畑のピーマンが青く大きく光っている。ニガウリの蔓、隼人瓜の蔓が高い木をよじ登って繁茂して、きらきら朝の日に煌めいている。
夫(それ)、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるにおほよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。・・・我や先、人や先、けふともしらずあすともしらず。おくれさきだつ人は、もとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたへぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひをうしないぬる・・・ 蓮如上人「御文章」白骨の章より
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我々は皆死ななければならない。早いか遅いかの違いはあっても皆一人残らず死なねばならない。死ぬのは恐ろしい。消えるのは恐ろしい。死ぬのは嫌だ。消えるのは嫌だ。恐ろしくても嫌でも容赦なく死なねばならない。われわれは幻を生きている。浮生を生きている。一つの息が止んで二つの眼が閉じたら白骨となるしかない。お金持ちだろうと貧乏人だろうと、功績を残した人であろうと残せなかった人であろうと、幸運幸福の薄かった人も厚かった人も、美人も不美人も平等に。しかもそれは今日とも知れず明日とも知れず。
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もちろんこの無常の風は人間だけに吹いてくるのではない。動物、植物、昆虫、細菌ウイルス、コケ類シダ類、どんな形をしていようと、命を持った者は等しく一網打尽にされる運命だ。これに従って行くしかない。しかし、死があるから新しく新しく生まれても行くのだ。だからこれは新しく生まれ変わるための一工夫なのだ。
次へ次へ新しく新しく生まれ変わるための絶妙な工夫が死の営みなのだが、それでもそれを恐れる嫌がる。できるなら拒否をしてしまいたい。悲しい寂しい。空しい儚い。無に帰してしましそうで、どうしても、受け入れられない。永遠に生を繋げて行くための死であったとしても、それでも受容したくない。死があるからこそわれわれの生命体は発達や向上や進化や進歩を果たすことができるのだが、それとは引き替えにしたくない。今のままを続けていたい。
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人の死、我の死。肉身の死、友人知人の死。そのどれもがわれわれのこころを苦しませる悲しませる悩ませる。そうすることでわれわれの精神や魂魄、霊魂は錬磨されて耀き出す。大きな大きな歯車は回りに回る。われわれの嘆きをひっくり返して耕しながら死の歯車が回りに回る。大きな歯車が大きく大きく回ることで、われわれは個としての停止や休止や停滞を免れることができるのだが、こうやって理屈を幾つ列べてみたところで、それでも納得ができない、収まりが付かない。今のままを生きたい。