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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

誰かのひたいのあぶらののこり

2015年05月24日 15時48分15秒 | Weblog

見つけたの雨の日バスの窓ガラスに誰かのひたいのあぶらののこり   鳥栖市 岡崎陽子

これは新聞の読者の文芸欄に載った入選歌。一読してその場の実景が浮かんできた。バスの座席の窓ガラスににんげんの額がつけた脂汗の跡が残っている。人を特定できる指紋のように。外が暗くて内が明るいとよく見えるのかも知れない。この誰かは、窓ガラスに額をつけて、夜の町のネオンを目に流しつつ、恋しい人のことを偲んだのだろうか。バスに揺られつつ、あの人のことをぼんやりと考えていた作者は、そこでその人に幾分の親しみを感じてはっとする。「見つけたの」のメスが入る。いやいや、そんなロマンチックな状況ではなくて、その脂汗の人は、勤め帰りの疲労困憊者がつけた居眠りの残骸に過ぎなかったかもしれないが。初句の切り口が生き生きしている。いい作品には新しい発見が光っている。

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少々えげつない

2015年05月24日 15時29分01秒 | Weblog

農家の人が畦道に立って電動草刈り機を使って夏草を切っておられるので、草の匂いがここまで流れて来て、さぶろうの鼻の粘膜を刺激する。青いいい匂いがする。いのちが放出する鮮やかさ烈しさをすばやくキャッチする。宙に舞った夏草の真新しい命をくんくんと嗅いでさぶろうはうっとりしている。セックスのエクスタシーのときのようになっていて、だらりとしていて、少々えげつない。電動草刈り機はまだ盛んに唸り声を上げている。

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仏を実証した者

2015年05月24日 14時19分07秒 | Weblog

入我我入。にゅうががにゅう。(仏は)我に入りたまひ、(仏は)我を入らせたまふ。  真言宗経典「舎利礼文」より

この句は主語を補ってみるとこう読める。「(仏は)我に入りたまひ、(仏は)我を入らせたまふ」 或いは、「(仏は)我に入りたまひ、我は(仏に)入りぬべし」としてもいい。

これは呼吸で示せば理解しやすい。息を吸うときにはわたしの体内に仏がお入りになって充満し、息を吐くときにはわたしが仏の胎内に入って拡散することができるのである。「仏」で分かりにくければここを「宇宙」としてもいい。「仏の法(だんま)=宇宙エネルギー」としてもいい。ともかくエネルギーとして一つに溶け合うのである。この事実を指し示されると、さぶろうなんかは、新鮮な驚きに満たされる。

この句の前後はこうなっている。

為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 いがげんしん にゅうががにゅう ぶっかじこ がしょうぼだい

我が為に(仏は)身を現して我に介入して一体化し、我を(仏に)介入させて一体化せしむなり。このようにして仏は(我を)加持(=守護)するが故に、我は(仏の)菩提(=仏智見)を実証して(仏を)活動するなり。  (さぶろうの愚訳)

仏が仏の最高最良最善をそっくりそのままわたしにお与えになられるのである。少しくすねてその残りだけをくれてやられるのではない。完璧に100%そっくり仏そのものをわたしに(=衆生に)ゆだねてしまわれるのである。これが「為我現身」ということである。姿を現されるということだけではない。宇宙のエネルギーがそのまま、完璧なまま、わたしに伝わってくるのである。

呼吸を例にとれば理解が行き届くので、それで話を進めると、息を吸っても吐いても両者(仏と我)は不可分の関係を保っている。つまり一体化しているのである。従って仏我は平等、あるいは仏我は一如であるといっていい。そうであれば、抗うことがなくなるのである。従うことも逆らうことも不用になるのである。

本来不可分なのだから、仏と我は、互いに「入る」という動作も不必要なのである。二極に見えて一極なのである。「生死の中に仏あれば生死なし」はこの辺りの消息を述べている。仏智見で見ればそうなる。そうなるが、にんげんの眼ではそうは見えてこないから、二極を立てて見せているのである。「我証菩提」はここを指している。わたしが仏の智慧(仏智見)を実証していることになっているからである。

さぶろうは今日はこんなことを考えていた。

夏空を見たか/夏空は仏である/ゆえに/夏空を見た者は/仏である/仏を見ることができる者は/仏である/涼風を受けたか/涼風は仏である/ゆえに/涼風を受けた者は/この場ですなわち/堂々の仏である/涼風を受けることができる者は/仏である/青い海と緑の山の功徳に与(あずか)ったか/海と山は仏である/ゆえに/この功徳に与った者は/仏である/仏を実証した者である/

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降る降る坊主

2015年05月24日 09時57分03秒 | Weblog

今日になってもまだ雨は降らない。素振りも見せない。困った。畑の土がからからに乾いて来ているのだ。土は野菜を育てなければならないのだ。雨乞いをしようか。照る照る坊主は雨よけ呪(まじな)いだから、降る降る坊主を軒端に吊してみようか。

照る照る坊主の紙人形には、願いが叶えられたら、神酒を供えて目の位置に睛(ひとみ)を書き入れたというが、降る降る坊主にもそれ相応の報酬をしてもいい。報酬といってもサツマイモの芋煮くらいなんだけど。

雨水は植物にとっては生命維持の水である。太陽の光も適度な気温も空気も生命維持には欠かせないが、それだけでは、死活してしまうのである。水がないと地上には潤いがなくなってしまうのである。花も新緑も水の潤いなのだ。

にんげんを含め、生命体構造の多くの部分を水が受け持っていたのだった。お湿り程度でもいい。1時間ほどでいい。とにかく雨が降って来てほしい。じゃないと、川へ行ってバケツに水を汲んで畑に撒いてやらないと、サツマイモの蔓は枯れてしまう。

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遠ざけてきたものを近づける

2015年05月24日 09時11分51秒 | Weblog

死ねるときに死のう。ふっとそう思った。十分に老いたからだろう。これまでは死なないように、死なないようにと努めてきた。医者にかかって、検査を受けて、注射を打って薬を飲んだ。しかし、ここまで来るともういいのではないか。完璧な防御態勢をしないでもいいようにも思える。死ねるときに死んでいいはずなのだ。その方がずっと自然だろうと思った。

死は、案外、パイロットなのかもしれない。舟の舳先に立って港へ舟を安全に案内してくれる水先案内人なのかもしれないのだ。次の寄港地へ安全に案内をしてくれる役割の死を、拒否しないようにしよう。すくなくとも何が何でもというがむしゃらな拒否はしないでいい。そこそこの元気回復や健康維持には努めるとしても、昏睡状態にまでなっても延命治療を施してもらうのは、少なくともそれは止しにしたい。

どうして、死なないようにという思いが、鉄砲のように堅く打ち込まれているのだろう。生の快楽がそうしたのか。死なずに、家族を守り支えなければならないという義務が働いていたのか。死の向こう側が見えてこないためにいたずらに恐怖を煽っていたのか。死なずにいることが正義で、死んで行くことが悪であるかのような、強い固定観念に捕縛され続けてきた。

しかしそれはもう十分満足されたのだ。これからは、遠ざけて遠ざけてきたもの=死をもっと身近に近づけて、できれば親しく交わるようにはできないか。敵ではなく味方として。いずれかならずそこへ、新大陸へ逝く身である。そうすれば敵の手に落ちるのではなく、味方に迎えられるという感覚が得られるのではないか。ふっとそう思った。

確実に死ぬ時期が近づいているので、死を我が身心に馴染ませておこうという無意識操作が働いているのかもしれない。そういっておきながら、いざというときには大暴れをするかもしれないが、それはそれで仕方のないことだろう。それもプロセスの一つである。文明を手中に収めたにんげん以外は、動物だろうと植物だろうと、みな生から死へのその自然の成行に任せているのである。

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