入我我入。にゅうががにゅう。(仏は)我に入りたまひ、(仏は)我を入らせたまふ。 真言宗経典「舎利礼文」より
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1
この句は主語を補ってみるとこう読める。「(仏は)我に入りたまひ、(仏は)我を入らせたまふ」 或いは、「(仏は)我に入りたまひ、我は(仏に)入りぬべし」としてもいい。
2
これは呼吸で示せば理解しやすい。息を吸うときにはわたしの体内に仏がお入りになって充満し、息を吐くときにはわたしが仏の胎内に入って拡散することができるのである。「仏」で分かりにくければここを「宇宙」としてもいい。「仏の法(だんま)=宇宙エネルギー」としてもいい。ともかくエネルギーとして一つに溶け合うのである。この事実を指し示されると、さぶろうなんかは、新鮮な驚きに満たされる。
3
この句の前後はこうなっている。
為我現身 入我我入 仏加持故 我証菩提 いがげんしん にゅうががにゅう ぶっかじこ がしょうぼだい
我が為に(仏は)身を現して我に介入して一体化し、我を(仏に)介入させて一体化せしむなり。このようにして仏は(我を)加持(=守護)するが故に、我は(仏の)菩提(=仏智見)を実証して(仏を)活動するなり。 (さぶろうの愚訳)
4
仏が仏の最高最良最善をそっくりそのままわたしにお与えになられるのである。少しくすねてその残りだけをくれてやられるのではない。完璧に100%そっくり仏そのものをわたしに(=衆生に)ゆだねてしまわれるのである。これが「為我現身」ということである。姿を現されるということだけではない。宇宙のエネルギーがそのまま、完璧なまま、わたしに伝わってくるのである。
5
呼吸を例にとれば理解が行き届くので、それで話を進めると、息を吸っても吐いても両者(仏と我)は不可分の関係を保っている。つまり一体化しているのである。従って仏我は平等、あるいは仏我は一如であるといっていい。そうであれば、抗うことがなくなるのである。従うことも逆らうことも不用になるのである。
6
本来不可分なのだから、仏と我は、互いに「入る」という動作も不必要なのである。二極に見えて一極なのである。「生死の中に仏あれば生死なし」はこの辺りの消息を述べている。仏智見で見ればそうなる。そうなるが、にんげんの眼ではそうは見えてこないから、二極を立てて見せているのである。「我証菩提」はここを指している。わたしが仏の智慧(仏智見)を実証していることになっているからである。
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さぶろうは今日はこんなことを考えていた。
夏空を見たか/夏空は仏である/ゆえに/夏空を見た者は/仏である/仏を見ることができる者は/仏である/涼風を受けたか/涼風は仏である/ゆえに/涼風を受けた者は/この場ですなわち/堂々の仏である/涼風を受けることができる者は/仏である/青い海と緑の山の功徳に与(あずか)ったか/海と山は仏である/ゆえに/この功徳に与った者は/仏である/仏を実証した者である/