不眛因果(ふまいいんが)。因果律はくらます(眛)ことができない。悪因は悪果に辿り着き、善因は善果に流れ着く。悪因が善果を生み出すことはなく、善因が悪果に止まることもない。仏教はこれを普遍的真理としている。
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だが、悪が善を支えているということはある。悪人が善人のためになっているということはある。あると思っている。善人に悪を知らしめていてくれるのは悪人である。身を以て悪の地獄に堕ちて、善人の悪指向を塞いでいるのは悪人の業務である。
善の恩恵に蒙っている者は恩恵に惑溺してそこで善が消失をしてしまう。善が絶え間なく善であり続けるためには、善果を手放してこれを悪果の者に振り向けねばならない。
果はすぐにそこで因にすり替わっていく。果をどうしたか。善果をどう料理したか。悪果をどう昇華したか。善果を独占したか。シェアしえたか。悪果を忍耐したか。悪果から何を学んで行ったか。それが現在で新しい因となって行く。
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100%の悪もない代わりに100%の善もない。両者は常に渾然一体となって流れている大河である。織り交ぜながら、縦糸にして横糸にして織り交ぜながら、人生という織物を織って行く。互が互を引き立てていればこの織物は美しい織物に仕上がっている。世界の文学、日本の文学作品に登場する数々の小説のように。
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因果をすり替えることはできないが、常に新しいスタートをスタートすることはできる。今日ここで善因の種を蒔いておけば、それは善果の木となって枝葉を着けて行く。
だが、残念ながら、この種は園芸店で売られてはいない。袋に入れて「善因の種です」というレッテルも貼られていない。水をやり光を当て肥料を施し、発芽した善因の植物をこころして育てて行かねばならないのである。(これを因とは別に縁と呼んだのだろう)
不眛因果。ふまいいんが。果は結果である。結果だがいつも当座の結果である。動かないで固定してある結果はない。無結果と呼んでもいいようにめまぐるしく変化をしていく。因は原因である。原初の因は、果を伴った時に、原初ではなくなってしまう性質がある。それでも、因果の真理をくらますことはできない。