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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

ひとり遊びがわたしの性に合っている

2015年05月08日 16時18分17秒 | Weblog

世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる   大愚良

世の中の人と交わらないなどということではありませんが、それでもまあ、これがわたしの性格でしょうか、ひとりで遊んでいればそれで楽しく一日が暮れていきます。

ま、お酒好きな良さまは、しょっちゅう、人里に下りてはお酒を呼ばれて、美味しそうにたしなんでおられたというのに、この言いぐさ。子ども好きの良さまは日が暮れるまで子どもたちと毬つきをしておられたというのに、この物言い。貞心尼を好きで好きでたまらなくて何かというと手紙を書いて呼びつけになっておられたというのに、この無心のてい。

この歌はご自分の自画像のそばに書き付けられています。まさか、孤高の精神を吹聴するものではありますまい。世の中に下りて行っても、何をやっても上手くいかなかった、その反省を込めて、ちょっと照れ笑いをしておられる禅師の愛らしさが浮かんできます。

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因果をくらますことはできない

2015年05月08日 15時32分38秒 | Weblog

不眛因果(ふまいいんが)。因果律はくらます(眛)ことができない。悪因は悪果に辿り着き、善因は善果に流れ着く。悪因が善果を生み出すことはなく、善因が悪果に止まることもない。仏教はこれを普遍的真理としている。

だが、悪が善を支えているということはある。悪人が善人のためになっているということはある。あると思っている。善人に悪を知らしめていてくれるのは悪人である。身を以て悪の地獄に堕ちて、善人の悪指向を塞いでいるのは悪人の業務である。

善の恩恵に蒙っている者は恩恵に惑溺してそこで善が消失をしてしまう。善が絶え間なく善であり続けるためには、善果を手放してこれを悪果の者に振り向けねばならない。

果はすぐにそこで因にすり替わっていく。果をどうしたか。善果をどう料理したか。悪果をどう昇華したか。善果を独占したか。シェアしえたか。悪果を忍耐したか。悪果から何を学んで行ったか。それが現在で新しい因となって行く。

100%の悪もない代わりに100%の善もない。両者は常に渾然一体となって流れている大河である。織り交ぜながら、縦糸にして横糸にして織り交ぜながら、人生という織物を織って行く。互が互を引き立てていればこの織物は美しい織物に仕上がっている。世界の文学、日本の文学作品に登場する数々の小説のように。

因果をすり替えることはできないが、常に新しいスタートをスタートすることはできる。今日ここで善因の種を蒔いておけば、それは善果の木となって枝葉を着けて行く。

だが、残念ながら、この種は園芸店で売られてはいない。袋に入れて「善因の種です」というレッテルも貼られていない。水をやり光を当て肥料を施し、発芽した善因の植物をこころして育てて行かねばならないのである。(これを因とは別に縁と呼んだのだろう)

不眛因果。ふまいいんが。果は結果である。結果だがいつも当座の結果である。動かないで固定してある結果はない。無結果と呼んでもいいようにめまぐるしく変化をしていく。因は原因である。原初の因は、果を伴った時に、原初ではなくなってしまう性質がある。それでも、因果の真理をくらますことはできない。

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わがために労することなし

2015年05月08日 14時34分10秒 | Weblog

さ。そろそろ日が翳る。外に出よう。空気はからりとしている。昨日畑のブロッコリーを全部引き抜いた。そこがぽっかり空いている。ここの草取りをして、耕して、ここに牛糞を撒いて、韓国南瓜の苗を植えることにしよう。韓国南瓜の種(最初の種は数年前に韓国で仕入れてきた)は発芽してすでに5cmほどに成長している。昨年はこれが豊かに実った。形は細長い野菜瓜に似ている。味噌汁に入れると実に美味しかった。油炒めも醍醐の味になった。日没の7時までは作業ができる。

「一日不作 一日不食 (いちにちなさざれば、いちにちくらわず)」は唐時代の禅僧・百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉である。一日、僧としての作務(さむ=労働)をしなければ、一日分の食を摂らない、というほどの意味である。高齢になったのでもう午前中の畑仕事はお休みになったほうがよかろうというので、弟子衆が、百丈の農機具を隠してしまった。作務ができなくなった百丈はその夜の食を断った。

お釈迦様の時代は出家者は労働をしてはならないという戒があった。住むところ、着る物、食べる物に至るまで「すべてをいただく」としていたためである。無所有(わが所有とすることなし)、無住所(わがとどまる一定のところなし)、無労作(わがために労することなし)を貫いて仏道を深めたのであろう。仏教が中国で全盛時代を迎えるとこうはいかなくなった。僧侶があふれていたからである。禅寺では午前中の作務をよしとした。自作農が始まったのである。

あるときお釈迦様が村里を弟子集とともに伝導の旅をして歩いておられた。農家はちょうど刈り入れの時であった。一行は乞食(こつじき=食を乞う)をされた。すると農民が「あなたも働いたらいいではないか」と詰問をした。お釈迦様は「われは福田(ふくでん)を耕す」とお答えになられた。衆生を幸福にする(こころの)田を耕す労働をしています、というほどの意味だろう。以来、僧侶の法衣袈裟は、その素朴な原型は、この四角い田圃が列んでいる福田の形をしているのである。

さぶろうの仏教に関する説明は正確ではありません。みんなうろ覚えです。おおよそのことを述べています。ううまんぎゃ、ううしかつ、です。そのまま受け取らないでおいて下さい。

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おのれ一人を高しとするのがゴールか

2015年05月08日 13時40分42秒 | Weblog

人恋しい。人肌の体温に触れていたい。触れ合っていたい。交流電流を流し合っていたい。さぶろうは木石ではない。土器(かわらけ)ではない。欲望の超越をしていない。死んで冷たくもなっていない。

人恋しいが、恋しくないふりをしている。理性を働かせている。理性で我が身の欲望を静かにさせている。人間に巣喰う本性を欺(あざむ)いている。それで宥(なだ)めている。人恋しくない方が高潔だと言い聞かせている。仏戒に悖(もと)るとしている。ほんとうにそうだろうか。

あるとき、お坊さんがいた。修行が進んでとうとう最後の段階の覚りに到達したと言う。その話を伝え聞いた村里のお婆が自分の娘を僧坊に差し出して、その真偽をはからせた。娘を化粧させてその夜その高僧にお仕えさせた。朝になって娘は戻ってきた。「で、どうだったか」とお婆は娘に質した。覚りの僧は娘を遠ざけて抱かなかった。

お婆はその僧が偽物だということを看破した。悟るということは木石になることではなかったのである。血も涙も欲望も涸(か)らしてしまうことではなかったのである。化粧をした人に女性(にょしょう)を感じてこそ、その女性を生かすことができたのではないか。利他(他者の利益を忖度する)は人恋いのただ中にも働いていなければならなかったのである。

ここは中々微妙なところで、さぶろうにもはっきりした判断はできていない。「火中に入って栗を拾う」の諺がある。火中にも入らず、おすまし顔だけをしていればいいのか。そんな安直が覚りかどうか。高僧は女を口説かない。目にもとめない。では、口説かなければ高僧になれるか。ここも微妙なところだ。「おのれ一人高し」は大乗とは言えないのかもしれない。

美しい人を見て、「あなたは美しい人だ」と思うのは間違ってはいない。化粧の匂いを嗅いで心中に抱きたくなる。ここまでは生きた人間の正常な行為の範疇である。その先をどうするか。お婆は何を期待したのであろう。どうしていたら、この修行僧の覚りを真実だとしたのだろうか。少なくとも、仏像礼拝や仏典読経や仏道修行の中だけの、ロマンチックな空想が覚りではなかったはずである。人間界の欲望の渦中でそれがどう働いたか、それも問われているだろう。

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わしは地獄へ頭から飛び込んでいく

2015年05月08日 13時06分08秒 | Weblog

遷化(せんげ)とは高僧の死を指します。「化(け)を遷(うつ)す」という意味合いがあります。化は教化(きょうげ)すること、衆生を仏道に導いて行くことです。この世での働きを切り上げて、教化の場を次の世に遷していくわけです。だから僧としての働きが終わったのではありません。冥界にも衆生がいて、ここを冥(くら)しと見て、道に迷ってうろうろしていたら、ここでの済度をする役割があるからです。ここを冥しと見た者は冥界に行ってそこを離れられません。

江戸時代の禅僧の白隠さんもこれをなさいました。村の衆が「和尚さんが死んだら仏のお浄土へ行かれるでしょうね」と聞きますと、彼は「そうではない。わしは地獄へ行く。ここがわしの働き場所だから」という答を出します。「地獄行きの者は足下からずり落ちて地獄を住み処とするが、わしは頭から地獄目掛けてまっ逆さに飛び込んでいこう」と。「どうしてそうなさいますか」村の衆がそう言って食い下がりますと、白隠さんはユーモアたっぷりに「わしが地獄へ先に行っておかねば、後から落ちてくるみなが困るであろう」と。

遷化は活動の場所を遷したということです。高僧が成仏して浄土へ往ってしまったら、後の者(仏の浄土をよしとしない、はみ出し者)は救済者を失ってしまうことになります。仏に成る資格は十分整ったが、まだ仏には成らないと覚悟を決めている者のことを菩薩と呼んでいます。大乗仏教では自分が成仏することをゴールとしていません。そこはスタート地点です。そこから何をするか。衆生済度の活動を開始するのです。

大乗は大きな乗り物ですから、たくさんの人を乗せていくことができます。いわばジャンボジェット機の機長、他アテンダントたちです。このジャンボジェット機は穢土と浄土を行き来しています。一人で行かねばならないとしたら大変なことでした。

 

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気色張ってはならぬ

2015年05月08日 11時02分42秒 | Weblog

比叡山で法然も親鸞も仏道修行をされた。そして天台の教えを棄てたようにして、新しく念仏の浄土門を打ち立てられた。だから、比叡山の流れを忠実に汲んでいる人たちにとっては、彼ら新興の徒たちは、仏法の牛盗人の性格を帯びていた節がある。牛盗人の疑惑は断罪にかけられて、法然も親鸞も島流しの刑になってしまった。宗門の争いがたけなわとなった。こちらが正統だ、こちらが本門だ、こちらに義がある。そういう争いが巻き起こった。争えば争いに負ける者が出て来る。負けたら非常手段を使ってでも復讐をしたくなる。復讐心を抑えるためにはやたら仏法を鎧にして気色張りたくなる。争っては成らない。これは親鸞の門にいる者たちにたいしての自戒となった。

牛盗人と見らるとも、ゆめ仏法者と見らるべからず。この戒めはこういう背景もあったのかもしれない。

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ピンクな女性を連れ回さなくとも

2015年05月08日 10時32分35秒 | Weblog

ふっふっふっふっふ。もしかしたら、珠子に会えるかもしれない。このもしかしたらは、もしかしたらの3乗~4乗くらいだから、てんで当てにはならないけど。美しい春の空のような珠子に会えるかもしれないという微かな、ほんの微量な予感予兆が、さぶろうをそわそわさせている。さぶろうの前に、今し、美しい春の空が広がってきたからである。

といったって、そのもしかしたらで会った珠子がにこにこして迎えてくれるとは言い難い。さぶろうは老醜むきだしである。むしろその反対の確立が強そうだ。わたしはあなたとデートをするつもりはありません。こんな肘鉄砲を一発二発喰らわされるかもしれない。胸板の厚くないさぶろうはこれで吹っ飛んでしまうかもしれない。だらしなくそこへ延びているかもしれない。KO負けのボクサーのように。

珠子はフィクションの女性である。上半身が人間で下半身は魚のような人魚姫である。いわば雑種だ。空想と非空想の雑種だ。フィクションだから迷惑はかからない。漫画の主人公のようなものである。漫画の中にまで、だから、損傷を負わせることはない。損傷を負うのはさぶろうの方である。一人で勝手にふられて傷ついている。珠子はさぶろうの理想のシンデレラ姫である。現実の人間はこの地上でこの役割を演じることは極めて稀で、いまだかって現れてこない。

それにしてもなんとまあ美しい春の空であろう。これで十分ではないか。心の中に珠子などと言うピンクな女性を連れ回さなくっても、一日を十分楽しめるようである。おお、おお、甍越しに元気な鯉のぼりが泳いでいるようだ。

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あなたはこれこれこういう名前の人間になります

2015年05月08日 10時06分33秒 | Weblog

受記(もしくは授記)は仏陀の約束である。法華経の経典に数多く出て来る。どういう約束か。こうである。「あなたはやがて仏になります」「仏に成ったときのあなたの名はこれこれです」「仏に成ったあなたが建設する国はこういう国です」「この国はこれこれの長い時間続きます」「あなたが仏に成った時の、その時代の名称はこれこれです」「この国にやって来て仏の教えを受ける人たちの数はこれこれです」

だから、受記は仏の未来預言でもある。修行を積んだお弟子衆に受記がなされる。人がこの世を生きて行けるのは未来があるからである。行き着く目的地があるからである。無駄にしていられるわけはない。仏陀はお弟子衆にそれぞれ固有の仏陀の名前を告げられる。そしてその国土(お浄土)の固有の名称を告げられる。だが、そこまでに至る時間がこれまた途方もなく長い時間である。その間はずっと利他の修行に明け暮れてその時代その時代の仏陀にお仕えをすることになる。それでも授けられたお弟子衆は歓喜を叫ばれる。

お釈迦様も過去、途方もない過去に、燃灯仏という仏にお仕えしてこの仏から受記を受けられた。それが彼の意識の奥底にしまわれていてそれが彼を修行させ仏にさせるためのエネルギーになった。燃灯仏に会う前にもお釈迦様は数限りない仏さま方にお仕えをして修行をなさったと伝えている。

受記は「あなたもこれこれこういう名前の仏になれますよ」だけではない。その前段階がある。それはこうである。「あなたはこれこれこういう名前の人間になります。そこはこうれこれこういう国であって、これこれこういう時代を生きていくことになります」

そしてその通りに人間になって今を迎えているのである。無論、仏に成るという受記のアフターステージもある。仏に成った仏がその後で向かって行く先があるのだが、それは仏に成ったときのお楽しみとしておいた方がよさそうだ。

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わたしを好きになってくれる人に会いたい

2015年05月08日 09時28分35秒 | Weblog

だれかに/あいたくて/なにかに/あいたくて/生まれて来た/そんな気がするのだけど/それが/だれなのか/なになのか/いつなのか/おつかいの/とちゅうで/迷ってしまった子どもみたい/とほうにくれている/それでも/手の中に/みえないことづてを/にぎりしめているような気がするから/それを手渡さなくちゃ/だから/あいたくて    工藤直子の詩「あいたくて」から

あいたい。何かじゃなくて誰かにあいたい。お遣いをしている途中で道に迷ってしまった子どものわたしが、会いたいという人は、道を教えてくれる人である。指し示してくれるだけでもいいけれど、いっしょに手を取って歩いてくれる人がほしい。途方に暮れて道に座り込んでいるわたしだから、そこへ歩いて来てくれる人の人影だけで、わたしはほっとするかもしれない。胸を撫で下ろすかもしれない。でも、やがて彼は通り過ぎる。その後でやって来た彼女も通り過ぎる。幾人がやって来てもそこに立ち止まってはくれない。わたしはとうとう夕暮れにいて西の空が赤く焼けてくのを見ている。もう我慢がならない。手の中に握りしめているもの、生まれたときからずっと握りしめている大切なレターを開いて見る。と、生まれる前のわたしの、こういう言づてが保存してあった。「わたしにあったら、どうか、わたしを好きになって下さい。そうすればわたしはとたんに氷の魔法が解けて美しい人間になれます」

あいたい。わたしを好きになってくれる人にあいたい。あまったれと言われようと独立心欠乏症といわれようと、非建設的となじられようと、それでもいい。受け止めよう。愛されない苦しみは大岩である。あいたい。愛すること、人を好きになることが、愛されるための唯一の重要なシークレットだということを理解した上で、あいたい。わたしを好きになってくれる人に会いたい。

工藤直子さんの詩を読んでいるうちに、さぶろうの胸にも詩が生まれた。詩とは呼べないかもしれないけど。

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見えていないわたしが わたしとして存在している

2015年05月08日 08時57分54秒 | Weblog

わたしは見えない。それでいてすべてが見えている。見えていないとそこに存在していることすら確かめられないけれども、それでもわたしはそこに居る。存在している。存在してすべてのものの動きを見ている。山だって雲だって見ている。鳥だって木の葉を揺らす風のそよぎだって見ていられる。光が向こうから届いて来ているからまぶしい。まぶしいということは、わたしの瞳が光を受け止めていることなのだ。じゃ、透明ってこと? わたしは透明ってこと? そうかもしれない。わたしにもわたしが見えていないし、わたし以外の人がわたしを見ようとしたって同じ事だろう。形はあるようでない。触れない。けれども、ある。形の感覚がある。足が両足、手が両手ある。胸もある、腹もある。顔の左右には耳、中央には鼻、その下には唇があり、これが上下左右に割れて口になっている。瞳も二つあって、それぞれがくるりくるりと回っている。青蛙の鳴き声が耳に入る。地上は梅雨どきで、田圃には水が張られている。

死んでしまったらいったい何処へ行ってどうしているだろうという解けない疑問があったが、それが氷解した。わかったのだ。分かったと言うよりは体感しているのだ、いま。わたしは、「なあんだ、こういうことだったのか」とつぶやいている。「うん、これもいい。たしかにいいな。第一軽い。そして自由だ」存在のあり方がヴァージョンアップしただけなんだ。わたしはちょっと嬉しくなって走り出す。東の空の方角を見渡してみると、そこには広々とした大海が座を占めている。静かだ。南の空の方角には星々が光っている。南十字星がここからでも見える。わたしはわたしの大好きな人を呼ぶ。ひとりではさみしい。さみしいという感情が湧いてきたらしくて、わたしはあたりを探し始めている。

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